【第二章:ファニング王国編】

第6話 『山嶺(やまね)の小さな事件』



【乾いた風と山の香り】


 ローヴァンの丘を後にして二日。

 北東の道は低い草原から山岳地帯へと移り変わり、乾いた風が岩の間を吹き抜ける。

 朝日に照らされた山の稜線は鋭く、影が長く落ちていた。


 マーカスは帽子のつばを押さえ、ゆっくりと歩く。

 胸の奥で微かに響く封印の残響に耳を傾けながら、一歩一歩、道を刻んだ。


 風が岩肌を渡り、乾草を揺らす。

 ここでも、かすかな匂いが鼻腔をくすぐる――土と石、雪解け水、遠くに咲く高山草花の香り。


 風は時折、背後から軽く吹きつけ、丘陵や町で漂っていた風の気配を運ぶかのように、彼の肩先を撫でていく。

 まるで、過ぎ去った森や町の気配がまだ旅路を見守っているかのようだった。



【山間の集落】


 昼近く、山の谷間に小さな集落が現れた。

 石造りの家々は古く、屋根に藁を載せてある。

 小川の流れが村を分け、木橋がかかる。

 風は谷を抜けるたび、木々と屋根を震わせる。


 村の子供たちが水辺で遊んでいるのを見て、マーカスは足を止めた。

 何か事件が起きそうな、静かな緊張感――彼の感覚はいつも冴えている。


 その時、子供の一人が足を滑らせ、小川に落ちそうになった。

 マーカスは素早く駆け寄り、腕を伸ばして子供を抱き止めた。


「危なかったな。大丈夫か?」

「は、はい……!」


 子供は泣きそうな顔を上げ、目を丸くしてマーカスを見た。

 風の流れが一瞬、彼を避けるように変わったのを、無意識に感じ取ったらしい。


「……あの、あなた……ただの旅人じゃ、ないよね?

 さっき……風が変わったんだ。道が……変わったみたいで」


 マーカスは少年の目を見て、静かに視線を逸らす。


「気のせいだ。……高い所や水辺は気をつけろ」


 少年はそれ以上は言わず、深く頷いた。

 マーカスは背を向け、再び歩を進めた。

 風が軽く彼の肩先を吹き、旅路の孤独を優しく包んだ。



【小さな崩落】


 午後、山道を登る途中で小規模な落石が起きた。

 岩が道を塞ぎかけ、背後から風が吹き上げる。


 マーカスは立ち止まり、足場を確認しながら石を避けるルートを見極める。

 落石の角度、風の強さ、岩の質――すべてを瞬時に計算し、身を低くして通り抜けた。


 風が岩をかすめ、彼の動きに沿うように流れる。

 無言の連携のように、自然が手助けする感覚だった。



【夕暮れの風】


 夕刻、谷の高台で野営を設ける。

 空は朱色に染まり、山並みが長い影を落とす。

 風は冷たく澄み、かすかに異質な脈動を含んでいた。


 マーカスの左肩の下、服の下で刻まれた印が微かに熱を帯びる。

 北東――メルツ王国の方向。

かすかな氷光が夜空を撫で、封印の脈動を知らせている。


 封印の核が、静かに揺らぎ、呼んでいる。


「……やはり、声の女も封印も、俺を見てる」

 帽子のつばを押さえ、マーカスは立ち上がった。


 風がコートを押し、北東へ歩を促すように吹き抜ける。

 旅は、まだ終わらない。



【風に道を示される者】


 乾いた山風を背に、光を胸に、歩む者。

 風が運ぶのは、遠い声か、未来の兆しか。

 封印の脈動は静かに、しかし確かに道を照らしていた。


──詩篇「風を継ぐ者」より

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る