【第一章:ブローグン王国編】
第2話 『火急の災』
《少年期》
―まだ名を持たぬ呼び声の夜に―
⸻
風が、鉄の匂いを押し流していた。
いつもなら工房の煙突から昇る薄い灰が、山のふもとの空へすっと溶けていくのに――
その日は、どこか焦げたような重さが混じっていた。
夕刻。
赤く沈む陽の光が街を染めるころ、工房の扉を震わせるような地鳴りが走った。
鍛えた鉄がかすかに跳ねる。
火床の炎が、一瞬だけ低く伏せて息を潜めた。
胸の奥で、何かがかすかに疼いた。
左肩の奥――生まれた時からある“印”が、見えない指でそっと撫でられたように熱を帯びた。
理由はわからない。
ただ、その熱がいつもより深かった。
次の瞬間、外がざわめいた。
人々の叫び。
軋む木造の門。
そして――焔の破裂する音。
街の外れの倉庫で火が上がったらしい。
風に煽られて広がる焔の色が、遠くからでもわかった。
ドレイアスが火床から立ち上がった。
その大きな背が、揺れる炎より重く見えた。
言葉はない。
ただ、じっと空気を読み取っているようだった。
気づけば、僕は駆け出していた。
子どもでも、火の色が街を飲み込もうとしていることくらいはわかる。
どこかで泣く声。
走る靴音。
遠くの倉庫で、焔が屋根を喰う。
左肩の印が、脈を打つようにまた熱くなる。
胸がざわりと震え、足が止まった。
――呼ばれている?
そんなはずはない。
けれど、確かに誰かが「来い」と言ったように感じた。
熱は皮膚ではなく、心に触れてきた。
「マーカス!」
背後でドレイアスの声が落ちる。
叱るより早く、彼は僕をひょいと抱えて脇へ押しやった。
「火のまわりを読むまでは近づくな」
いつもの静かな声。
けれど今は、声の奥に鋼の焦燥が潜んでいた。
焔は倉庫の前に横倒しになった荷馬車に燃え移り、激しさを増していた。
街の人々が水を運ぶが、炎は風とともに息を吹き返す。
ドレイアスは水桶を持つ大人を手伝いながら、ふと僕の肩に視線を落とした。
驚いたように、その瞳がわずかに揺れる。
印が――翡翠の色を帯びて淡く光っていた。
自分でも見えるほど、ほんの短い瞬きの間だけ。
その光が、焔の赤と混ざり合い、視界の奥で震えた。
古い本の文字が、思い出の底から浮かんだ。
――調律。
――封印。
――抱く者。
何の意味かも知らない言葉たち。
風が、焔を巻いた。
火の粉がひとつ、子どもの足元まで転がった。
僕は反射的に手を伸ばしてしまった。
ただ、その火の粉を払うためだけに。
――その瞬間、印が熱を噴いた。
息が詰まるほどの熱。
まるで内側から掌まで火が駆け上がってくるような感覚。
胸の奥で、何かが“目覚めようとして”蠢いた。
ドレイアスが僕の手を掴んだ。
その力は、火よりも強かった。
「マーカス、見たな……?」
低く、押し殺した声。
問いではなく、確信のように響いた。
けれど僕は、返事ができなかった。
何を見たのか、自分でもわからなかったからだ。
ただ、印の熱と光だけが確かだった。
周囲の視線が僕に向けられる。
焔が爆ぜた瞬間、子どもの影から光が走ったように見えたのだろう。
「おい、今の……」
「マーカスのところから……?」
そんな声が耳の端で揺れていた。
でも、決定的な何かを見たわけではない。
人々は、僕が何かしたのではと“一瞬疑った”だけ。
それはまだ、疑いにもならないような曖昧なざわつきだった。
焔は大人たちの手でなんとか押さえ込まれ、倉庫は半分だけ焦げ残った形で夜を迎えた。
火が沈んだあと、街は静かだった。
しかし胸の奥の熱だけは、まだ消えていなかった。
「……師匠、僕……」
言いかけた言葉を、ドレイアスはそっと遮った。
「まだ気にするな。
だが――覚えておけ」
彼は夜空を見上げた。
その瞳には、言葉にできない“恐れ”と“覚悟”が滲んでいた。
「印が疼くのは、偶然じゃない。この国のどこかに……お前を呼ぶ“何か”がある。
名も知らん。正体も知らん。
だが、ただの火で呼ばれるような代物ではない」
息が凍るような静けさが落ちた。
彼でさえ、その存在の輪郭しか見えなかったが、未来の軌跡を知る者のように、目は確かにそれを捉えていた。
ドレイアスでさえ、名前を知らぬ“何か”。
ただ、存在だけは確かにあると知っているらしい。
僕は肩に触れた。
印の熱はようやく薄れ、ただの皮膚の温度に戻り始めていた。
この印は――普通じゃない。
ようやく、心のどこかでそう思い始めた。
この印は、ただの傷跡ではない。遠い昔、世界の秩序に関わる者にだけ刻まれる痕だと、俺は後に知ることになる。
だが、受け止めるにはまだ幼すぎる。
誰にだってあるような傷跡だ、と自分に言い聞かせながら夜道を歩いた。
空には、翡翠の星があった。
小さく、揺れていた。
まるで、いつか自分が目覚める“呼び声”を遠くから見守っているかのように。
⸻
◆◆◆ 章末詩 ― 火を越えて ◆◆◆
火はただ燃え
影はただ揺れ
名を持たぬ呼び声は
いま少年の胸に触れる
光はまだ弱く
運命はまだ遠い
だが印だけは知っていた
――その日が来ることを
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