【第一章:ブローグン王国編】

第1話 『始まりの刻印』


《少年期》



 ――物語は、そこから始まった。


 まだ背丈の小さかった頃。

 山に囲まれ、鉄の匂いがいつも風に混じっていた街、リボルバーキャノン。

 七つの連合国の中でも、もっとも武具と火薬の匂いが濃い場所だ。


 街の中心から少し外れた、石造りの工房。

 そこが、俺――マーカスと、師匠ドレイアスの暮らしの場所だった。


 朝は鉄を起こす音で始まり、夜は火を眠らせて終わる。

 ただ、それだけの毎日だったはずだ。


 あの日までは。



「マーカス。火、落ち着いてきたぞ。仕上げるなら今だ」


 低く太い声。

 振り返ると、巨体の男――師匠ドレイアスが腕を組んで立っていた。


 木こりのような肩幅。

 灰色の髭は胸元まで伸び、無駄口とは無縁の男。


 だが、大事な時だけは必ず言葉をくれる。

 その声は、火よりも熱く、鉄よりもまっすぐだった。


「うん、やってみる!」


 鎚を振り下ろそうとした、その時。


 ――ぱさり。


 工房の奥から、小さな紙の落ちる音がした。


 普段は鍵がかかっている棚。

 今日は珍しく、少しだけ開いていた。


「……師匠? なんか落ちたよ」


 問いかけると、ドレイアスはわずかに眉を動かした。


「……放っておけ」


 即答。

 いつもより鋭い。


 けれど、少年の好奇心は火よりも扱いづらい。


 気づけば俺は、棚の前に立っていた。


 そこには、一冊の古びた革の本。

 砂漠の砂がまだ表紙に残っているような……そんな書物が眠っていた。


 それは“中央大陸の遥か昔の言語”で書かれた記録だと、俺は後に知ることになる。

 だが当時の俺には、ただ古くて、少し怖い本にしか見えなかった。


「これ……なに?」


 触れた瞬間、胸の奥がざわりとした。


 開く。

 文字は読めるようで読めない。

 だけど、いくつかの言葉だけが不思議とはっきり目に入った。


 ――【調律】

 ――【封印】

 ――【翡翠の星】

 ――【抱く者、破る者】

 ――【鍵はひとつ、道はふたつ】


 理解はできない。

 ただ、心だけが熱くなる。


 この街では聞いたことのない語ばかりだった。

 だがどこかで――ほんのどこかで、

 “世界にはもっと広い仕組みがある” と告げられた気がした。


 すると。


「マーカス」


 名前を呼ぶ声が、すぐ背後に落ちた。

 振り返ると、師匠の眼差しがそこにあった。


 深く、重く。

 何か大きな焔を抱えたような、寡黙な炎の色。


「その本は……お前が触れていいものじゃない」


「ご、ごめん……!」


 慌てて閉じようとすると、ドレイアスの大きな手がそっと本を押さえた。


 怒ってはいなかった。

 ただ――何かを決意するような静けさだけがあった。


「……だが、見てしまったものは仕方ない」


 彼は小さく息を吐き、俺の左肩へと視線を落とした。


 袖の下。

 肌に生まれつき刻まれた、淡い“印”。


 いつもと同じはずなのに、

 その目はまるで――何かを見極めようとしているようだった。


 (あの時の目は忘れられない。

 驚きでも恐れでもなく――“覚悟” の色だった。)


「師匠……?」


 問いかけた。

 でも、返ってくる言葉はひとつだけ。


「覚えておけ、マーカス」


 ドレイアスは静かに言った。


「その印は……いつか“呼ばれる”。

 本に書かれていたことも、いずれお前自身が気づく」


「どういう意味?」


 少年の声は、ただ不安と好奇心で震えていた。


 だが、師匠はそれ以上語らなかった。


「今はまだ話す時じゃない。

 今は、鍛冶を覚えろ。生きる力をつけろ。

 運命なんぞ、急いで向かうもんじゃない」


 その言葉だけを残し、師匠は棚を静かに閉じた。


 彼の背は、いつもの倍は大きく見えた。

 まるで“何かから守るように”棚の前に立っていた。


 本当は何かを知っていた。

 だが、語らなかった。


 その夜、棚は二度と開かなくなった。


 ――けれど、あの日見た言葉は、

 俺の心にずっと、翡翠色の焔のように残り続けた。


 そしてそれが、後に俺の人生を動かす最初の“刻印”になることを、

 あの時の俺はまだ知らなかったのだ。

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