第2話:氷の魔女の裏側

頭の中に響く他人の「本音」は、慣れるまで時間がかかりそうだった。 俺は耳を塞ぎたくなる衝動を抑えながら、街の大通りを歩いていた。


『腹減ったなあ……』

『この壺、偽物だけど高く売りつけてやるか』

『あの子のスカート、もう少し短くならないかな』


欲望、不満、嘘。 人間の内面というのは、ここまで無防備で、そして汚いものなのか。 昨日まではただの「賑やかな街の風景」だったものが、今は「欲望の濁流」に見える。


それでも、生きていくためには金を稼がなければならない。 手切れ金があるとはいえ、宿代と食費を考えれば、すぐに底をつく。 俺は頭痛をこらえながら、冒険者ギルドの重い扉を押し開けた。


ギルドの中は、外の喧騒が可愛く見えるほどの騒ぎだった。 荒くれ者たちの怒号、酒を注文する声、依頼の交渉。それらに加えて、彼らの心の声が一斉に脳内に流れ込んでくる。


『あの受付嬢、今日こそ口説き落とす!』

『チッ、安い依頼ばっかりだな。割に合わねえ』

『あいつの装備、良いな。寝込みを襲って奪うか……』


俺は吐き気を催しそうになりながら、端の方にある低ランク向けの依頼掲示板へと向かった。 今の俺にできるのは、街の周辺での薬草採取か、ドブさらい程度だ。Sランクパーティーにいた頃とは天と地ほどの差があるが、贅沢は言っていられない。


「薬草採取、報酬は銅貨五枚か……」


厳しい現実を突きつけられ、ため息をついた、その時だった。


ザワッ……。


ギルド内の喧騒が、波が引くように静まり返った。 入り口の方から、空気が凍りついたような冷気が漂ってくる。


「おい、あれ……」

「『氷の魔女』だ……」

「Sランクパーティー【聖女の加護】の魔法使いか……?」


冒険者たちが道を空ける。 その中心を、一人の少女が静かに歩いてきた。


腰まで届く艶やかな黒髪。 陶器のように白く滑らかな肌。 そして、見る者全てを凍らせるような、底知れぬ深さを秘めた紫色の瞳。


ルナだ。 かつての仲間であり、俺を追放した張本人たちの一人。 彼女は周囲の視線を一切気にすることなく、ギルドの中央を歩いてくる。その表情は能面のようで、感情の欠片も読み取れない。


(見つからないようにしないと……)


俺は反射的に体を縮め、掲示板の影に隠れようとした。 今は関わりたくない。何を言われるか分かったものじゃないし、最悪の場合、ここでも恥をかかされるかもしれない。


だが、俺の願いは虚しく散った。 ルナの足がピタリと止まり、その紫の瞳が、正確に俺の方を向いたからだ。


コツ、コツ、コツ。


硬質なブーツの音が近づいてくる。 俺は観念して、顔を上げた。 目の前には、圧倒的な美貌と威圧感を持つルナが立っていた。


「……まだ、この街にいたの?」


鈴を転がすような、しかし絶対零度の響きを持つ声だった。 周囲の冒険者たちが、固唾を飲んで俺たちの様子を見守っている。「あいつ、魔女に目を付けられたぞ」「可哀想に」という心の声が聞こえる。


「あ、ああ……これからのことを考えてて……」


俺がしどろもどろに答えると、ルナはフンと鼻を鳴らした。


「無能な貴方が何を考えようと、無駄なことよ。目障りだから、私の視界に入らないでくれる?」


痛烈な言葉だった。 昨日の今日で、これだ。彼女にとって俺は、本当にただのゴミでしかないのだろう。 俺は唇を噛み締め、視線を逸らそうとした。


その時だ。


『ああっ、ナオト……! ナオトだわ……! 生きてる、動いてるナオトが目の前にいる……!』


「え?」


俺は思わず顔を上げてルナを見た。 彼女の口は動いていない。表情も、先ほどと同じ冷徹な無表情のままだ。 だが、脳内に響く声は続いている。


『昨日は追い出しちゃってごめんなさい……でも、ああするしかなかったの。だって、あのままじゃ貴方が危険な目に遭っちゃう……』

『それにしても、今日のナオトも素敵……少しやつれた顔も、庇護欲をそそるわ……』

『ああ、その困ったような眉の角度……たまらない。今すぐこの場で押し倒して、私のものにしたい……!』


(は……?)


俺は思考が停止した。 今、なんて言った? 押し倒して? 私のものにしたい? この声は、間違いなく目の前のルナのものだ。声質は同じだ。しかし、内容があまりにも乖離している。


「何をしているの? 聞こえなかったのかしら」


ルナが再び口を開く。その声は相変わらず冷たい。


「さっさと消えなさい。貴方のような底辺が、私と同じ空気を吸っているだけで不愉快だわ」


言葉のナイフが俺を刺す。 だが、その直後に甘い毒のような本音が流れ込んでくる。


『嘘よ、行かないで! もっと近くに来て!』

『ああ、ナオトの匂いがする……汗と、土埃と、安宿の石鹸の匂い……』

『いい匂い……脳が溶けそう……。今すぐ胸に飛び込みたい。そして、首筋に噛み付いてマーキングしたい……』

『スーハーしたい……スーハー、スーハー……』


俺はゾッとして一歩後ずさった。 ルナの紫色の瞳が、俺の首筋や鎖骨のあたりをねっとりと舐め回すように見ている気がした。 いや、気がするだけじゃない。彼女の心の声がそれを証明している。


(なんだこれ、どうなってるんだ!?)


ルナは、俺のことを嫌っていたんじゃないのか? 「無能」「ゴミ」と罵っていたのは何だったんだ? この変態じみた心の声こそが、彼女の本性なのか?


「……チッ」


俺が後ずさったことに気づいたのか、ルナは不機嫌そうに舌打ちをした。


「私の言葉が理解できないほど、頭が腐っているようね。まあいいわ、二度と私の前に現れないで」


彼女は冷たく言い放つと、ふわりと漆黒のローブを翻して背を向けた。 その去り際、俺の読心スキルは、彼女の心の絶叫を捉えた。


『ああああん! ナオトが怖がってる! そんな顔も可愛いけど、逃げられるのは嫌!』

『どうしよう、強く言い過ぎたかしら? でも、優しくして他の女共にナオトの良さがバレたら困るし……』

『ナオトは私だけのもの……誰にも渡さない……』

『とりあえず、後でこっそり後をつけて、今日泊まる宿を特定しなきゃ……』

『夜這い……できるかしら……?』


ルナはそのまま、颯爽とギルドの奥へと歩いていった。 周囲からは「さすが氷の魔女、容赦ねえな」「あいつ、よく生きてたな」という畏怖の声が上がる。


俺だけが、冷や汗で背中をぐっしょりと濡らして立ち尽くしていた。


(あいつ……俺の宿を特定するとか言ってなかったか?)


幻聴だと思いたい。 だが、あまりにもリアルな「本音」だった。 俺は震える手で依頼書を一枚ひっ掴むと、逃げるようにギルドを飛び出した。


あの冷徹なルナが、内心ではあんなことを考えていたなんて。 「読心」スキルが暴いた事実に、俺の混乱は深まるばかりだった。

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