第11話 沈黙の都、絶望の澱みを往く
かつて一千年の栄華を誇り、
地上のいかなる王都をも凌ぐと謳われた黄金の都サルナス、
その面影は……もはやどこにもなかった。
ムナールの地に降り立った。
ヌトセ=カームブルと従者の少女を待ち受けていたのは、
肺を焼くような毒々しい緑の霧と、
底知れぬ
「……ひどい。ここが、
あの伝説に聞くサルナスなのですか?
命の気配が、まるで腐った泥の中に塗り潰されているようです」
少女は法衣の袖で口元を覆い、
吐き気を堪えるように周囲を見渡した。
バチバチと静電気のような火花が散っている……
かつては大理石の並木道であったろう場所には、
粘りつくような藻が絡まり、
奇妙な半魚の像が泥にまみれて転がっている。
「繁栄の果てがこの惨状だ。高慢さは、
往々にして自らを滅ぼす種を蒔く。
……来るぞ。泥の底で眠れぬ者たちが、
客人を歓迎するつもりのようだ」
ヌトセ=カームブルの声が響くと同時に、
周囲の沼地が不気味に沸き立った。
ドロリとした水面から這い上がってきたのは、
かつてこの地で人間に虐殺された、
『イブの生物』たちの亡霊であった。
半透明の、両生類を思わせる異形の姿をした霊体たちは、
数千年に及ぶ憎悪を叫び声に変え、
美しい女神の四肢に絡みつこうと群れを成す。
「熱い……苦しい……人間を、神を、すべてをこの深淵へ……」
亡霊たちの絶望が、
冷たい水の手となって女神の衣を汚していく。
それは物理的な攻撃ではなく、
精神を直接腐敗させる『呪い』の奔流であった。
「女神様! 離れてください、その霊に触れてはなりません!」
「案ずるな、少女よ。
この程度の怨嗟に揺らぐほど、私の意志は安くない」
ヌトセ=カームブルは落ち着いた動作で左腕を掲げた。
虚空から現れたのは、
星々の輝きを鋳造したかのような結晶体の盾。
『最果ての
その盾が放つ清冽な光は、沼地の毒霧を割り、
まとわりつく亡霊たちの怨念を弾き飛ばした。
だが、女神は武力で彼らを霧散させることはしなかった。
彼女は静かに盾を下げると、冷たい泥の中に膝をつき、
亡霊たちの醜悪な頭部にそっと掌を差し伸べた。
「……永き時を、 この暗い泥の中で過ごしたのだな。
貴様たちの無念も、奪われた故郷への想いも、今ここで私が受け止めよう。
安らかに眠るがいい。この地に残る呪縛は、私が終わらせる」
女神の瞳に宿ったのは、
かつての彼女には欠けていた『他者への哀悼』であった。
アリオンの最期を見届け、その遺志を継いだ彼女にとって、
滅びた者たちの痛みは、もはや他人事ではなかったのだ。
深い慈愛の光が波紋のように沼地に広がると、
狂気に満ちていた亡霊たちの叫びが、
次第に穏やかな溜息へと変わっていく。
やがて彼らは一粒の光となって、澱んだ水の中へと還っていった。
「……憎悪の霧が、晴れていきます。
女神様、あなたは彼らの心まで救われたのですね」
「救ったのではない。ただ、分かち合っただけだ。
……さあ、廃墟の核心へ向かうぞ。そこには、
さらに厄介な試練が待っている」
二人はさらに奥、
泥に埋もれたサルナスの中心部へと足を踏み入れた。
そこには、かつて『中央政府』のごとき、
巨大な権力を誇ったサルナスの支配者たちが、
自らの慢心の果てに築き上げた巨大な祭壇の跡があった。
辺りに見えるのは、幻影だ。かつての貴族たちが、
黄金の杯を掲げて下等な生命を嘲笑い、
黄金の杯から滴るワインが、
足元の奴隷たちの涙と混ざり合っている。
彼らはその不浄な味にさえ気づかず、
ただ永遠の繁栄を歌い続けていた。
自らの繁栄が永遠に続くと信じて疑わなかった
「見てください。あれは……サルナスの人々の記憶?」
「そうだ。彼らは巨大な組織の力に酔いしれ、
自らが世界の中心であると錯覚した。
その組織が腐敗し、内側から崩壊を始めた時、
彼らは現実に気づくことさえできなかった。
……これは、あらゆる時代、
あらゆる組織が陥る『慢心』の檻だ」
その時、女神の脳裏に鋭い誘惑の声が響いた。
『ヌトセ=カームブルよ。お前もまた、
旧神という絶対の力を持ち、
世界を支配する組織の一員ではないか。
なぜ苦労して人間を救う?
黄金の都を再建し、神として君臨すればよいのだ」
それはサルナスの残照が放つ、甘い破滅の囁きであった。
だが、ヌトセ=カームブルは鼻で笑った。
「黄金の都など、一瞬の火花にも満たない。
私が求めているのは、繁栄への執着ではない。
一人の男が命を賭して見せた、明日を信じる『意志の続き』だ」
女神の強い否定が、
サルナスの幻影をガラスのように粉砕した。
泥と怪物に埋まった無残な廃墟の中に、一筋の黄金の光が差し込む。
廃墟の最奥、今や形を失った黄金の神ロボンの神殿跡に、
求めし『雷光』がその姿を現そうとしていた。
「少女よ、目を逸らすな。これこそが、
滅びた都の教訓であり、私が超えねばならぬ過去だ」
女神は神剣の柄を握り直し、黄金の槍が眠る、
沈黙の深淵へと手を伸ばした。
――第12話へ (立ち去れ、旧神よ)
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