第08話 狂気の産道、英雄の慟哭

氷原の果て、

天を突く断崖の根元に口を開ける場所があった。


『始まりの洞窟』――現世と深淵カダスを繋ぐ、歪んだ次元の結節点。


洞窟の入り口には、粘着質の糸が何重にも張り巡らされ、

奥からは不吉な嘶きが響く。



「ここです、女神様。あの方が、

 笑いながら足を踏み入れた場所です」


少女が身震いしながら告げる。白い法衣の袖が、小さく揺れた。


岩壁は脈打ち、低く呻くような声が洞窟にこだまする。

紫色の体毛に覆われた『レンの蜘蛛』が、無数の眼で獲物を待つ。



「狂気と捕食の揺り籠か。アリオン、

 貴様はこの泥濘でいねいを這い、ここまで来たのだな」


ヌトセ=カームブルは煤けた剣を抱え直すと、

静かに洞窟内へ足を踏み入れた。


瞬時に、数千の蜘蛛が跳躍し、

空からはシャンタク鳥の鉤爪が振り下ろされる。


だが女神は一歩踏み出すだけで、次元の波動を衝撃として炸裂させた。


「我が巡礼を妨げるな」


一閃――不可視の圧力が蜘蛛を押し潰し、

鳥の翼を塵に変える。圧倒的な神威の前には、魔物も無力だった。


女神と少女は死骸を越え、洞窟の奥へ進む。



進むにつれ、洞窟は『記憶の回廊』へと変貌した。

壁に刻まれた跡は、過去の戦闘と苦悩を映す証だった。


「見てください、女神様。あそこ……」


少女が指差したのは、鋭い剣の斬撃跡。

絶望の中で仲間を守ろうと振るわれた剣筋だ。


霧のように、アリオンの思念と仲間たちの記憶が立ち上がる。


――視界が歪む。


幻影のアリオンは、一人ではなかった。


重厚な盾を構えた大男のリヒャルト、

聖印を掲げた老魔術師グレアム、

そして快活に笑う若き乙女弓手エミナ。


彼らは現世の希望を背負い、この洞窟に挑んでいた。


「リヒャルト! 止血が間に合わない!」


アリオンが叫ぶ。大男は毒牙に倒れ、震える手でアリオンの襟首を掴む。


「……行け、アリオン。立ち止まるな! 

 お前だけでも、女神の元へ……」


笑いながら血を吐き、息絶えた。


少女が目を見開く。

壁の残像が、仲間の慟哭を直接伝えてくるのだ。



レンの蜘蛛との激しい戦いが続く。


「もうすぐだエミナ。……しっかりしろ、

 お前、好きな人がいるって、言っていただろ。」


アリオンはグレアムを見る。彼はそっと首を振る。


「アリオン。あなたは、しなないで」


彼のほほをなでながら、その手は力なく落ちる。



最後に残った幻影のアリオンが、焚き火の前で一人、

顔を覆って震えていた。


一人、また一人と、仲間が削られていく。



「女神様……あまりに、残酷です」


「いや、これは残酷ではない。愛だ」


ヌトセ=カームブルは、アリオンの姿を見つめる。

仲間を失うたびに光を失うのではなく、瞳には『』が灯る。


「奴は仲間の死を無駄にせず、己を『』に作り替えた。

 この剣跡の一つひとつが、魂の証だ」


女神は煤けた剣を岩壁に重ねる。

洞窟全体が鳴動し、仲間たちの思いと血と涙が、剣へと流れ込む。


すすけた剣は虹色の光を放ち、仲間の魂を宿した。



「行こう、少女。この奥に、奴が全てを捨て、

 ただ一振りの剣となって私を求めた場所がある」


「はい……アリオン・シー。

 あなたの嘘の裏にあった本当の気持ち、少し分かります」


二人は、狂気と悲しみの産道を抜け、

物語が完結へ向かう最深部へと急いだ。



「私も、誰かにこんなふうに思われたかったな……」


アリオンの『死』は、

新たな『神話』として産声を上げようとしていた。




――第09話へ (すべてを背負ったのだな)

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