第07話 詐欺師の微笑、神の愉悦

氷原の夜は、生命を拒むような静寂に包まれていた。

ヌトセ=カームブルと、新たに彼女の眷属となった少女は、

断崖の陰で一夜を過ごしている。


女神が指先で灯した淡い白光の火は、熱を持たないものの、

周囲の冷気を遮る結界の役割を果たしていた。



「……女神様、ひとつ、聞いてもいいですか?」


少女が膝を抱えながら口を開く。


「何だ?」


「どうして、あんな男の形見を大事にしているんですか? 

 アリオン・シー……あの方、英雄なんて立派なものじゃない。

 ……ただの、救いようのない詐欺師です」


少女の言葉に、女神は膝の上の煤けた剣をそっと撫でた。


「詐欺師、か。確かに奴には、神の威厳を逆手に取る図太さがあったな。

 ……で、貴様は何を騙された?」


少女は唇を尖らせ、少し不満げに語り始める。


「数年前のことです。私は主――ニャルラトホテプの命を受け、

 この地の村を生贄に捧げるために降り立ちました。

 そこで出会ったのが、あのアリオンでした」


少女の脳裏に、ボロボロの革鎧をまといい、

不敵に笑う一人の男の姿が蘇る。


「彼は村人を盾にするどころか、

 真っ直ぐ私の方へ歩いてきて言ったんです。


  『よお、そこの可愛い使いの者。こんな貧相な村人の魂を集めて、

   君の主人は喜ぶのかい?』って」


「ほう……大胆な男だな」


女神は目を細め、微笑を浮かべた。アリオンの姿が容易に想像できる。



「私は戸惑っていると、彼はさらに続けました。


  『俺の体を見てみろ。数多の魔を斬り、

   神の領域の入り口まで覗いた特級の魂だ。


   この村人千人を集めるより、

   俺一人の絶望を捧げた方が、君の主人は喜ぶ』。


 ……その瞳の輝きに圧倒され、

 私は真実だと思い込んでしまいました」


「で、奴を殺そうとしたのか?」


「いいえ。彼はさらに畳みかけました。


  『だが、俺ほどの魂を最高の状態で捧げるには儀式の準備が必要だ。

   村人を逃がして、俺の心の逃げ場を断つ。それが魂を一番美味くする』。


 私は、より素晴らしい獲物を主に捧げたい一心で、

 彼に協力しました。村人を山脈の向こうまで逃がしたんです」



「……」女神は低く笑った。


「クク……なるほど。儀式の準備とは、つまり奴の策略だったのか」


「……はい。村人が逃げ切った瞬間、

 あの方は腰の剣を抜き、こう言いました。


  『悪いな。俺の魂はもう、とある女神様に予約済みなんだ。

   君の主人には、雪でも詰めて送ってやれ』って」


少女は拳を握りしめ、悔しそうに唇を噛む。


「あの方は、私を騙して善行をさせたんです。

 ニャルラトホテプの端くれである私を、

 勝手に道具にしたんですよ。最後に頭を乱暴に撫でて、


  『良いことをすると気分がいいだろう?』


 なんて笑って去った……」



さらに女神は小さく笑った。


「はは……奴は、外なる神の眷属さえも『善人』に仕立て上げるのか。

 最高に愚かで、最高に痛快な男だ」


「女神様……?」


「気に入った。奴の図太さも、巧妙な嘘も。

 恐怖に屈せず、混沌の使徒をすら、

 自らの正義のために利用した男。……まさに、守護者泣かせだ」


少女は呆然と女神を見つめる。


「貴様が受けた屈辱も、奴の『贈り物』だったのだ。

 貴様が私に救われる前に、既に奴の手で、

 貴様の魂に光が差し込んでいた」


女神は立ち上がり、夜の闇に沈む洞窟を見据える。



「行くぞ。奴が何を願い、

 どんなペテンを積み重ねてここまで辿り着いたのか。

 その全てを、この剣と共に受け取る」


「……はい、女神様。でも、あの方に会ったら、

 一度だけでいいから思い切り殴ってやりたいです」


「ふふ、構わぬ。その時が来たら、私も手を貸そう」


女神と少女。かつて相容れなかった二人は、

アリオンの思い出を媒介に静かに絆を深めていく。



人間など寄せ付けないはずのこの場所で、

ヌトセ=カームブルは、かつてないほど誇らしさを感じていた。




――第08話へ (女神様、あまりにも残酷です)

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