第06話 深淵を上書きする光

氷原の静寂を切り裂き、黒い霧が意思を持つ獣のようにうねった。


少女の姿をした混沌の残滓――

ニャルラトホテプの眷属が、細い腕を振るう。


それだけで周囲の空間はひび割れ、

次元の隙間から『この世ならざる色』をした触手が幾条も突き出した。



「消えて、旧神。あなたの光は、私には眩しすぎる……!」


少女の叫びと共に、無数の影の刃が襲いかかる。だが、

ヌトセ=カームブルは動かない。避けることさえしなかった。


静かに指を鳴らすと、襲いくる影の刃は空中で止まった。

いや、停止したのではない。


女神の周囲では、時間が凍り、因果も断絶されていた。



「物理の理で私を量ろうとするな。ここは、既に私の領域だ」


一歩を踏み出すと、

氷地に刻まれた足跡から青白い炎が立ち上がり、少女の操る混沌を焼き払う。



少女は目を見開いた。

「な、何……これが……本物の神の……力……?」


膝をつき、膨れ上がった混沌の力が徐々に消えていく。

女神の瞳は憐れみも怒りもなく、ただ氷のように透き通っていた。


「主への忠誠も持たず、命じられるまま命を奪う……

 あまりに空虚だな。かつて私がそうだったように」


女神は少女の喉元に手をかざした。

掌に握られたのは、アリオンから預かったすすけた剣。


その剣から伝わる微かな『人間の泥臭さ』が、女神の決断を揺り動かす。



「……殺すのは容易だ。だが、貴様の瞳の奥にある小さな火――

 『逃げ出したい』という意志を、私は嫌いではない」


指先から清冽せいれつな白光が放たれる。少女の体を貫き、

魂の奥に刻まれたニャルラトホテプの『』を上書きする。


「な、何を……!? 私はあの方の一部……

 他の色に染まることなんて……!」


「黙れ。主の呪縛を、私の神威で上書きしてやる。

 今日から、貴様は混沌の駒ではない。私の目となるのだ」


絶叫が氷原に響く。


黒かった衣は光に焼かれて純白の法衣へ、

濁った瞳は澄み渡る群青色へと変わった。


やがて光が収まると、

少女は荒い息をつきながら自分の掌を見つめた。

背中の触手は消え、淡い光の粒子が羽のように舞っている。


どこからともなく、愉快そうな気配が笑った――

『面白い。実に、面白い……』



「……あの方の……お父様の声が、聞こえない……

 あの狂気の囁きが、消えた……」


恐る恐る女神を見上げる少女。


「どうして助けたの? 私、あなたを殺そうとしたのに……」


「言っただろう。

 貴様の『意志』を買ったのだ」女神は淡々と答える。


「立て、名もなき娘よ。

 今日から私の眷属として、この地を案内せよ」


「……はい。あの方、

 アリオン・シーについて、知っているのですね?」


「そうだ。彼が何を見て、

 何を遺していったのか、私の目で確かめる」


少女は震える足で立ち上がった。

もはや恐怖はなく、女神への敬愛が芽生えている。



「覚えています。あの方は、

 私の罠にかかって絶体絶命だったはずなのに……

 ニヤリと笑って、こう言ったんです。


  『お嬢ちゃん、そんな暗い顔してちゃ、

   せっかくの美人が台なしだぞ』って……」


ヌトセ=カームブルは口元を緩めた。

「それで、お前はどうした?」


「……気づいたら、彼の口車に乗せられて、

 隠していた食料を村人に配る手伝いをしていました。


 主への報告も忘れて……去り際、

 『次はもっと広い空の下で会おうぜ』って、私の頭を乱暴に撫でて……」


少女の表情に、初めて人間らしい柔らかな笑みが浮かぶ。

女神は懐の剣の柄に触れ、微かに温かみを感じた。



「ふふ……やはり、あの男は『守護者』泣かせだな」


女神は氷原の先、アリオンが歩んだ洞窟の方向を見据える。


「案内せよ、少女。あの男が何を見て、

 何を遺したのか、私はすべて目に焼き付けねばならぬ」


「はい、女神様。『始まりの洞窟』はこの先、

 レンの蜘蛛たちが蠢く断崖にあります」


「たしかに、亡者共の呼び声が聞こえてくるようだ」



新たな従者を連れ、女神は再び歩み出す。


アリオン・シーが遺した想いの断片を拾い集める旅は、

今、確かな同行者を得て加速し始めていた。




――第07話へ (詐欺師か……)

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