第05話 氷原に立つ、名を持たぬ問い

氷原を渡る風が、唐突にその性質を変えた。

冷たさは同じはずなのに、そこには明確な『意思』が混じっていた。


皮膚を撫でるのではなく、内側を探るような、不快な感触。

ヌトセ=カームブルは足を止める。



「……姿を現せ」


その声は静かだったが、

極北の空間そのものが応答するように軋んだ。


霧が集まり、黒く、粘性を帯びた影が凝集する。

やがて、一人の少女の姿を取った。

年の頃は十代半ば。ボロ切れのような漆黒の衣。


銀色の髪は無造作に垂れ、雪よりも白い肌が、現実感を欠いている。


その背後で、触手めいた影が、

夢と現の境界を引き裂くように揺らめいていた。



「……旧神」


少女の声は、怒りも、嘲りも含まない。

ただ、温度がなかった。


「こんなところで、何をしているの?」


「それを問う資格が、貴様にあるとは思えぬな」


ヌトセ=カームブルの視線が、

少女の奥――影のさらに向こうを射抜く。


「這い寄る混沌。ニャルラトホテプの『端くれ』よ」


少女の肩が、微かに震えた。否定はしない。それが答えだった。



「私は命じられているの」少女は淡々と言う。


「あなたを監視し、

 必要とあらば、足止めをするようにって」


「『必要とあらば』か」女神は一歩、前に出る。


「では、今はどうだ?」



少女は即答しなかった。視線が、ヌトセ=カームブルの胸元へと落ちる。

煤けた鉄の剣。神の身には、あまりにも不釣り合いな代物。


「……それ」少女の声が、わずかに揺れる。


「どうして、そんなものを持っているの?」


「それが、私の巡礼の理由だ」


「理解できない」少女は首を振る。


「神なら、もっと相応しいものを持てばいい。

 星を切る刃。 次元を縫う槍。なのに、それは――」


言葉を探すように、一瞬、沈黙する。


「……ただの、汚れた鉄屑てつくずじゃない」



その瞬間、

ヌトセ=カームブルの瞳が、わずかに細まった。


「貴様は、それを『汚れ』と呼ぶのか」


「だって、そうでしょう?」


少女の声に、苛立ちはない。あるのは、純粋な疑問だけだ。


「神にも届かず、世界を救うこともできず、

 持ち主は死んだ」


「結果だけを見れば、そうだ」女神は静かに肯定する。


「だがな」


胸元の剣に、そっと掌を添える。


「この剣は、世界が無意味だと知りながら、 それでも一歩を踏み出した証だ」


少女の瞳が、わずかに見開かれる。


「……無意味、だと分かっていて?」


「そうだ」


「それで、何になるの?」


少女の声に、初めて感情が混じった。焦燥。あるいは、恐怖。



「無意味なら、やらなければいい。滅びるなら、最初から存在しなければいい」


影が、少女の足元でざわめく。


「私はそう教えられた。

 意味のないものは切り捨てろって。

 価値のないものは、消えろって」


その言葉は、誰かの命令をなぞるようだった。

ヌトセ=カームブルは、しばし沈黙する。やがて、低く言った。


「貴様は、名を持つか?」少女は首を振る。


「必要ない」


「そうか」


女神は一歩、距離を詰める。


「だが、その問いを口にする時点で、貴様は『駒』ではない」


少女の呼吸が、一瞬、乱れた。


「……私は、命じられているだけ!」



「違う」


女神の声が、氷原に静かに響く。


「貴様は今、『なぜ』を問うている」


少女の影が、大きくうねる。


「やめて」か細い声。


「そんなことを考えたら、私は――」


言葉が、続かない。


「消されるのか?」女神は、容赦なく続けた。


少女は唇を噛みしめ、

小さく、頷いた。


「……だから、私は止めなきゃいけない。

 あなたを。

 あなたが、それを『あるべき場所』へ持って行く前に」


黒い霧が、ゆっくりと濃度を増す。

影が刃の形を取り、空間に不吉な軋みきしみが走った。


ヌトセ=カームブルは、剣を抱き直す。



「ならば、いずれ戦うことになるだろう」


「……そう」少女の声は、もう迷っていなかった。


だが、その瞳には、

先ほどまでなかった光が宿っている。


「でも、ひとつだけ、教えて」


「何だ」


「その人間は……どうして、そこまでできたの?」


女神は答えた。一言だけ。


「愛だ」



少女は、しばらく黙っていた。

やがて、頭を振り誰にも聞こえないほど小さく呟く。


「……それが、私には一番、分からない」


黒い霧が、完全に刃となる。対話は、ここまでだった。


無価値な虚無の力(影)が、

回りに生えていた雑草を枯らしていく。


氷原に、避けられぬ衝突の予感だけが残される。




――第06話へ (神と混沌、刃を交える)

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