第02章「神剣の胎動~継承された息吹き」
第04話 氷原に咲く、祈りの残響
カダスの神殿を、数千年に及ぶ沈黙が揺り動かした。
重い扉が軋みを立てて開き、極低温の風が神殿内部へと流れ込む。
旧神ヌトセ=カームブルは、
その華奢な掌に、一振りの煤けた鋼を抱いていた。
それは、神々が宇宙の深淵を切り拓くために鍛えた宝具ではない。
星の理を刻んだ神器でもない。
一人の人間――
アリオン・シーが、汗と血と脂に塗れながら、
明日を信じ、振るい続けた剣。
ただそれだけの、何の変哲もない。
だが、確かに世界と向き合った『執念の証』だった。
「……まずは、お前の歩んできた空の色を知るべきか」
女神の呟きは、誰に聞かせるでもない独白だった。
彼女は神殿を後にする。もはや、ここは彼の剣が眠る場所ではない。
彼が愛した世界へ。
彼が守ろうとした、人間の営みへ。
それが、この剣に報いる唯一の方法だと、女神は理解していた。
「この辺り、か……」
神域を離れ、彼女が降り立ったのは、
永遠の冬が支配する荒涼たる大寒冷地だった。
空は鉛色に濁り、吐く息は瞬時に凍り、白い粒子となって散る。
地表では、鋭利な氷の礫が風に舞い、裸の肌を切り裂こうと牙を剥いている。
「……吐く息すら、氷となるか」
女神は短く息を吐き、胸元に抱いた剣を、無意識のうちに引き寄せた。
――だが。
その死の大地の只中に、信じ難いものが存在していた。
氷の岩陰に寄せ集まるように建てられた、
粗末な石造りの家々。毛皮を幾重にも纏い、か細い焚き火を囲む人影。
人間たちだ。
「……生きている、のか」女神の声に、わずかな驚きが混じる。
この地は、生存そのものが奇跡に等しい。それでも彼らは、
互いに身を寄せ、火を絶やさぬことで、命を繋いでいた。
女神の姿に気づき、人々は一斉に息を呑んだ。
恐怖と畏怖が、
氷原の空気よりも冷たく、その場を満たす。
「……神、なのですか……?」
震える声で呟いたのは、白い髭を凍らせた老人だった。
彼は杖を頼りに歩み出ると、
ぎこちなく地に膝をつく。
「どうか……どうか、この極寒の最果てにも、
お見捨てにならぬ証を……」
かつてのヌトセ=カームブルなら、この光景に何の感慨も抱かなかっただろう。
石に付着した苔。秩序の外縁に生じた、誤差。
そう切り捨てて、視線を向けることすらしなかった。
だが今、今は……
胸元にアリオンの剣を抱く彼女は、
この寒さ、この弱さに、確かな『生』を感じ取っていた。
「案ずるな」女神は静かに言い、老人の前に歩み寄る。
「私は、通り過ぎるだけだ」
その指先から、
地面に届いた瞬間。凍てついた土がひび割れ、
そこから小さな緑が顔を出す。
薬草だった。
同時に、氷の下から少しづつ湧き出た清水が、
乾き切った大地を潤し広がっていく。
「……あ……」老人の喉から、声にならない音が漏れる。
「ありがとうございます……神よ……!」
人々のざわめきが広がり、氷原に、かすかな熱が生まれた。
「礼には及ばぬ」女神は首を横に振る。
「私はただ、この剣の主に教えられただけだ」
胸元の煤けた鋼を、そっと撫でる。
「この世界は、醜くも――守るに値するほど、美しいのだとな」
施しとは、神の気まぐれに過ぎない。だが、その足取りは、
神殿を出た時よりも、わずかに軽やかだった。
女神は再び歩き出す。
この剣を、あるべき場所へ還すために。
そして――
その巡礼の先に、新たな混沌が待ち受けていることを、
彼女はまだ知らない。
――第05話へ (混沌の少女、登場)
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます