第03話 愛とは、滅びを恐れぬ心

肺は焼け、呼吸のたびに血の味が広がる。

視界は白く滲み、世界は音だけを残して遠ざかっていた。


アリオンは最後の一歩を踏み出し、女神の間近で膝をついた。


剣を支えに、かろうじて上体を保つ。

微かに息を整え、視線を女神に向ける。


ついにその肉体は限界を迎えていた。視力は失われつつあり、

瞳の焦点は定まらない。それでも彼は、かすかに笑っていた。


その瞳は、

ここからは見えないはずの青い空を仰ぐかのように澄んでいた。

そして、静かに言葉を紡ぐ。




       『愛とは、滅びを恐れぬ心だ』


  『女神よ、お前がそれを知る時、戦いは終わる』




女神は眉をひそめ、短く息を吐いた。


「……人間よ、そんなことが可能だとでも言うのか?」


その瞬間、女神の脳裏に濁流のような光景が流れ込む。


名もなき村の夕餉の匂い。赤子の泣き声。恋人たちの囁き。

そして、それらを護ろうと泥に塗れながら剣を振るう、

一人の男の記憶。


アリオンの瞳には、死への恐怖など微塵もなかった。


そこにあったのは、ただ『生きとし生けるものの美しさ』を信じる、

神にすら届かぬ強靭な光だった。



女神は思わず後ずさる。


「……これほどまでに、恐怖を超えた意志を見たのは久しい……」


その瞬間、ヌトセ=カームブルの胸を貫いたのは、

暴力ではなく、『』という名の衝撃だった。


彼が守ろうとしているのは、個としての自分ではない。

自分がいなくなった後も続く生命の連鎖。美しき世界の鼓動。


そのために、彼は自らの消滅を『』として差し出したのだ。


「……ああ、そうか。そういうことだったのか、人間よ」

女神はかすかに微笑む。


アリオンの指から力が抜け、鉄の剣が乾いた音を立てて倒れた。

極限まで酷使された魂が、ついにその役割を終えたのだ。


勝敗は最初から決まっていた。

だが、この日、真に勝利したのは果たしてどちらだったのか――



「この剣を……いつか、

 私のような愚か者が現れた時のために……預かってほしい……」


それが、英雄アリオン・シーの最期の言葉だった。


カダスの静寂が戻る。

横たわる亡骸を前に、女神は言葉もなく立ち尽くす。

やがて、彼が遺したすすけた鉄の剣を、壊れ物を扱うように拾い上げた。


冷たいはずの金属に、まだ彼の体温が残っているかのような錯覚を覚える。

神である彼女の心が、数億年の時を経て初めて、震えた瞬間だった。



「……愚かな。本当に、愚かな人間だ」


呟いた声は、かつての冷徹さを失い、

深い慈愛を帯びていた。女神は理解する。


自分が女神として存在し続ける意味――

それは、冷然と秩序を監視するためではない。


彼のような、短くも眩い命が紡ぐ『世界の輝き』を、

深淵の狂気から守り抜くためなのだと。


アリオンの表情は、どこまでも安らかだった。


女神は彼をカダスの土へと還し、その剣を胸に抱くと、永い沈黙へと入る。



――数千年の後。神殿の扉が開く。

アリオンの愛した世界へ、今度は彼女が歩み出す番だった。




「星霜の果てに遺された剣~星を穿つ意志」完   ――第04話へ

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