誰かはわからない
「ただ……」
七瀬さんは、そこで言葉を区切った。
「本当に“好き”なのかは、まだ分からなくて」
「分からない?」
「はい。胸が苦しくなるとか、ずっと考えてしまうとか……そういう感じとは、少し違う気がするんです」
彼女は、膝の上で指を組み直す。
「きっかけは、入学式の日でした」
少し前の記憶。
もう遠い気もする。
「あの日、人が多くて……実は、体調があまり良くなかったんです」
「大丈夫だったのか?」
「その時は必死でした」
苦笑して続ける。
「朝からあまり食べてなくて、緊張もしてて。人混みで急に、目の前がふわっとして」
視線が、自然と下に落ちる。
「転びそうになった時に……誰かが、腕を掴んでくれました」
「助けてもらったんだ」
「はい。でも、その時……視界がぼやけてて」
七瀬さんは思い出しながら語る。
「顔をちゃんと見る余裕が、なかったんです」
それなら、無理もない。
「覚えているのは、落ち着いた声と……」
少し考えてから、付け足す。
「あと、足元だけでした」
「足元?」
「はい。スリッパの色です」
そこでようやく、話が繋がった。
「学年ごとに色が違うやつか」
「そうです。私たちの学年は青ですよね」
「だな」
「だから……同じ学年だってことだけは、分かりました」
名前も顔も分からない。
でも、同じ学年の男子。
「それで、入学してから……」
七瀬さんは少し照れたように視線を逸らす。
「つい、同じ色のスリッパを見てしまって」
「探してたんだ?」
「意識して、というほどじゃないです。ただ……」
言葉を探すように、少し間が空く。
「似た感じの人が、いなくて」
「感じ?」
「困ってる人を、当たり前みたいに助ける感じです」
なるほど。
かなり曖昧だ。
「だから……たぶん、憧れに近いんだと思います」
七瀬さんは、そう結論づけるように言った。
「助けてもらった安心感を、勝手に“好き”だと思い込んでるだけかもしれません」
「それでも気になる、か?」
「はい。しっかりお礼も言えていないので」
静かな教室に、その言葉が落ちる。
「……それで、俺に相談してるのは?」
率直に聞いた。
七瀬さんは少し考えてから、答える。
「青木くんが、ちょうどいいからです」
「ちょうどいい?」
「人の話を、途中で遮らないし。無理に結論を出そうとしないし」
それは褒め言葉なんだろう。
「相談してるうちに、気持ちが整理できるかもしれないと思って」
「なるほど」
入学式。
体調不良。
青いスリッパ。
条件が、頭の中で静かに並ぶ。
(……考えすぎだ)
そう思うには、少しだけ材料が揃いすぎている気もしたが、俺はその違和感を押し込めた。
「まあ、探すのを手伝うくらいならできるけど」 「本当ですか?」
七瀬さんは、少しだけ安心したように笑う。
「暇な時なら」
「ありがとうございます、ではまた明日よろしくお願いします」
その笑顔を見て、
俺は――何も言わなかった。
言葉にしてしまえば、この相談は終わってしまう気がしたからだ。
答えを探している彼女の隣で、俺は今日も、ただ話を聞いている。
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