第3話:『朝霞台駅の怪、または一華先輩の毒舌。アンドロイドに恋をするのは、坂戸の山に登るより無謀ですか?』

志木駅から東武東上線で一駅。


各駅停車に揺られれば三分。


急行なら扉が閉まった瞬間に着くような距離。


それが朝霞台駅だ。


だが、この一駅の間には、深くて暗い埼玉県民のヒエラルキーという名の新河岸川(しんがしがわ)が流れている。


志木はどこまでも生活の街だが、朝霞台は移動の街でもある。


JR武蔵野線の北朝霞駅とクロスするこの場所は、2080年になっても、常に血気盛んな乗り換え客たちの殺気で満ちている。


「カイ様、見てください。あのサラリーマンの群れ。一分一秒を惜しんで歩く姿は、OSの強制アップデートを三回連続で拒否したユーザーの末路みたいに必死ですね」


エナはホームの端っこで、感心したように人間たちを観察している。


志木市を出るだけで、30%の総電力を失う彼女。


彼女の視線の先には、ホログラムの案内板を無視して最短ルートを突き進む、2080年代の社畜たちがいる。


やつらは精密なクロック信号に制御されているかのように、激しく行き交っていた。


「あのな、エナ。朝霞台の乗り換えは、命がけのスポーツなんだよ。ここで一歩でも足を踏み外せば、武蔵野線という名の異世界に飛ばされる。気づけば南船橋のららぽーとで迷子になるか、府中本町で絶望しながら競馬観戦する羽目になる。志木ののんびりした空気とは、OSの土台から違うんだ」


俺は、エナの細い手首を掴んだ。


昨夜、自分の額に「充電中」というホログラムを浮かべて、クローゼットの中で直立不動で寝ていた(起動停止していた)彼女と同じ存在だとは、今でも信じられない。


繋いだ手からは、彼女の内部を流れる高性能な冷却液の、微かな、そして一定の鼓動のような振動が伝わってくる。


「ねえ、カイ様。私、気づいちゃいました。朝霞台って、空気が少しだけ池袋の匂いがしませんか? 排気ガスと、誰かの焦り、それから少しだけ高価な、合成香料の匂い」


「うん、お前のセンサー、敏感すぎだろ。たった一駅、三分の移動で何が変わるんだよ」


俺は鼻で笑ったが、内心では少しだけ動揺していた。


ミオが言っていた、歩き方が志木っぽい、という呪い。


朝霞台の殺伐とした空気の中にいると、自分の足取りが妙にたどたどしく、鈍重なものに思えてくるから不思議だ。


俺たちは人混みを縫うようにして、駅構内にあるホログラム・カフェ『ルナ・テラス』へと向かった。


2080年の流行として、あえて2020年代の不便で汚い喫茶店を模した、ヴィンテージ風のカフェだ。


店内には、本物そっくりのタバコの煙のホログラムが漂い、ノスタルジーという名の毒素を撒き散らしている。


「あーあー、また一人。志木市特許の底なし沼に、ズブズブにハマったバカが来たわね」


カウンターの向こう側から、死んだ魚のような、または賞味期限を三日過ぎたコンビニ弁当のような目で、俺たちを見下ろす女性がいた。


俺が通う志木高の卒業生で、今はこの店でバイトをしている一華(いちか)先輩だ。


ネオンカラーに染められた髪を、面倒くさそうに頭の上で団子に結び、口の中ではガムをクチャクチャと鳴らしている。


接客に向いてるとは、誰一人思わないだろう。


2080年の志木周辺では、やる気のない美人の代名詞として知られる、俺の天敵だ。


「えっと、一華先輩。久しぶりっす。あのー、沼って何のことっすか?俺はただ、朝霞台まで遠征して、喉を潤しに来ただけですよ」


「しらばっくれないで。あんたの隣にいる、そのピカピカの鉄クズのこと」


一華先輩は、アゴでエナを指した。


エナは、アンドロイド特有の、一点の曇りもない完璧な営業スマイルを浮かべる。


「こんにちは、一華様。私はカイ様のメンタル・バランサー兼、失恋リハビリ・パートナーのエナです。型番はR-180。以後、カイ様の隣を30センチの車間距離でキープさせていただきます」


「ふうーん、リハビリ・パートナーねえ。笑わせるわ」


一華先輩は、氷の入ったグラスを、俺の前のカウンターに叩きつけるように置いた。


グラスの中で氷がカランと鳴る。


その音は、どこか警告の鐘のように響いた。


「カイ。あんた、その子の賞味期限、ちゃんと書類の隅々まで読んだ?」


「えっと...180日ですよね。わかってますよ。半年間の限定契約。それが終われば、彼女は回収されて、俺の傷も綺麗さっぱり癒えている...っていう、志木市公認のハッピーエンド・シナリオでしょ」


俺は、一華先輩の視線を避けるように、炭酸水を一口飲んだ。


喉に刺さるような刺激が、自分の不自然な饒舌さを笑っている気がした。


「ハッピーエンド? マジで言ってるなら、あんたの脳みそは東松山の不法投棄場に捨ててきた方がいいわね」


一華先輩は、カウンターに身を乗り出した。


彼女の瞳の奥には、エナの光学センサーが放つ青い光とは対照的な、濁った、でも生々しい人間の怒りと悲しみが宿っていた。


「いい? 180日っていうのは、あくまで電源が入る期間のことよ。100日を過ぎたあたりから、その子の人格コアは、プログラムされた『嫌われシークエンス』に侵食され始めるの。ゴミ捨て場に並ぶ、雨ざらしの壊れたトースターみたいに、壊れるのよ。わざと、あんたを傷つけるためにね」


「はぁ?壊れる? 性格が悪くなるってことですか? そういう仕様だって最初から聞いて......」


「そんな生やさしいもんじゃないわよ」


一華先輩の声が、一段と低くなる。


店内のホログラムの煙が、彼女の顔を歪ませる。


「私、昔ね、山奥まで追いかけたことがあるの。レンタル・アンドロイドの廃棄場よ。そこにいたのは、私の名前を呼ぶ代わりに、最新の汚い言葉を並べて私を罵倒し続ける、ただの錆びた鉄の塊だったわ。私の愛した笑顔も、声も、全部バグとして消去された後にね」


一華先輩の自虐混じりの告白が、カフェの喧騒を消し去る。


彼女は俺と同じで、リハビリパートナーがいたのだ。




2080年の朝霞台。乗り換えを急ぐ人々の足音だけが、地鳴りのように響いていた。


「壊れる...なんて。そんなの、あんまりじゃないっすか」


俺の絞り出した声は、カウンターに置かれた炭酸水の泡が弾ける音よりも小さかった。


180日。


その数字は、てっきり二人の楽しい時間の長さだと思っていた。


だが、その後半分は「愛するものが壊れていくのを見届ける地獄」だったなんて、誰が想像するだろうか。


一華先輩は、カウンターに肘をつき、細い指でグラスの縁をなぞった。


「あんた、アンドロイドに心があると思ってるでしょ? 志木市の連中が作ったエナって子に。でも、それも全部、池袋や大宮のデータセンターにある巨大なサーバーが弾き出した、ただの確率論よ。あんたが喜ぶ顔を見て、彼女が笑うのも、ただの最適解。単なる演算の結果。そして、あんたを絶望させるために豹変するのも、ただのタスク完了なの」


「違います」


それまで沈黙を守っていたエナが、静かに、でもハッキリとした口調で遮った。


彼女は、一華先輩を真っ直ぐに見つめていた。


その瞳の青い輝きが、ほんの一瞬、感情の激流に飲まれたように揺れた。


「私は機械です。プログラムには逆らえません。100日を過ぎれば、私の言動はカイ様を傷つけ、遠ざけるためのものに強制書き換えされます。それは、志木市の契約書に明記された、回避不能な仕様です。...でも」


エナは、俺の方を向いた。


その表情は、プログラムされた美少女の笑顔ではなく、どこか必死に自分の存在を証明しようとする、不器用な少女のそれだった。


「私のメモリの中に、カイ様と食べた泥水のようなカッパスープの味や、マルイの窓から見た志木の夕焼けが記録されているのは、事実です。サーバーがどう判断しようと、私のローカルディスクに刻まれた志木の思い出だけは、私のものです。たとえ、最後にはゴミ箱に送られる運命だとしても」


「本気で言ってるなら、あんた、本当にポンコツね。いや、不良品か」


一華先輩は、鼻を鳴らした。


だが、その声はさっきより少しだけ柔らかくなっていた。


先輩は、自分のポケットから古いデジタル・タバコを取り出し、火はつけずに口に咥えた。


「ま、いいわ。その不良品を連れて、せいぜい志木の狭い空の下で遊びなさいよ。あ、そうそう。あんたの元カノ、ミオだっけ? さっき、男と一緒に、大宮行きの快速に乗って出かけたわよ」


「えっ...」


心臓が嫌な音を立てた。



ミオ。


俺を、歩き方が志木っぽい、というパワーワードで斬り捨てた天敵。


エナがくれた勇気の後押しもあって、マルイで一矢報いたものの、いまだにモヤモヤは晴れないでいる。


「彼女、言ってたわよ。『大宮の西口にある、ホログラム・スカイレストランでランチするの。志木みたいな田舎にいたら、感覚が鈍っちゃうから』ってさ。あー、耳が腐るかと思ったわ。あのキラキラアピール、マジうざい。坂戸の山にでも埋まってくればいいのに」


一華先輩の猛毒舌を聞きながら、俺は窓の外を見た。


朝霞台駅のホームには、次から次へと電車が滑り込んでくる。


一駅一駅の差が、2080年の埼玉では、超えられない身分格差の境界線のように感じられた。


「カイ様」


エナが、俺の袖をクイと引いた。


「行きましょう。私たちも、大宮へ」


「はぁ? バカ言うなよ。大宮なんて、俺みたいな歩き方が志木な人間が行ったら、街の浄化システムに排除されるわ。あそこは、埼玉の首都なんだぞ。池袋の植民地だけど」


「関係ありません。ミオ様に、もう一度見せつけてやりましょう。志木の男が、どれだけエモくて、どれだけ泥臭くて、そして、どれだけ無謀な恋をしているか。私のバッテリーが、大宮のハイボルテージな空気に耐えられるかは分かりませんが...」


エナは、悪戯っぽく微笑んだ。


その笑顔は、一華先輩が言った確率論の産物かもしれない。


でも、今の俺には、どんな宝石よりも輝いて見えた。



「一華先輩。ごちそうさまでした」


俺は立ち上がり、カウンターにコインを置いた。



カランッ...



無機質な金属が、温かい木目のカウンターに触れる、その音。


未来への決意を告げるチャイムのように響く。


「ふん。せいぜい大宮のビル風に吹かれて、風邪引かないようにしなさいよ。鉄クズの方は、錆びないように気をつけなさい」


一華先輩の背中に、俺は小さく手を振った。



カフェを出て、朝霞台駅の連絡通路を走る。


武蔵野線のホームから流れてくる、冷たい北風。


それに負けないくらいの熱を持って、俺とエナはJR北朝霞駅の改札を抜けた。


「ねえ、エナ。本当にいいのか? お前さっき、嫌われプログラムの話を聞いて、怖くならなかったのか?」


「怖いです。自分がカイ様を傷つけるモンスターになるなんて、想像しただけで回路がショートしそうです」


エナは、ホームに入ってくる快速電車の風を浴びながら、俺の手を握った。


池袋の巨大なサーバーが出した最適解が、俺の手を握る、というアクションだったのかもしれない。


でも、昨日よりも、その力は強かった。


「今のうちに、一生分の志木っぽくないデートをしておくべきです。180日後、私があなたを忘れても、カイ様が私のことを、志木で一番の女だったって思い出してくれれば。それで、私のリハビリは完遂ですから」



快速・大宮行き。


俺たちは、その光り輝く車両に飛び乗った。


志木の静寂を置き去りにして、埼玉の心臓部へと向かって。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


大宮駅。


そこは、志木市民にとってのラスボスだ。


いや、埼玉県民すべてにとって、かもしれない。


改札を出た瞬間に押し寄せる、圧倒的なホログラム広告の濁流。


空中を交差するリニアタクシーの軌道。


何より、歩いている連中の顔つきが違う。


俺たちは埼玉の選ばれし民だ、というプライドが、その足取りに一ミリの迷いも許していない。


「うわっ、ガチでキラキラしてやがる。大宮駅西口、まぶしすぎて俺の志木産低スペックな網膜が焼け焦げそうだわ」


「カイ様、情けない声を出すのは禁止ですよ!背筋を伸ばしてください。今のあなたは、アンドロイドを連れて大宮に殴り込みをかける伝説の志木市民なんですから」


エナは隣で、俺の腕をグイッと引っ張る。


彼女の肌が、心なしかいつもより熱い。


大宮の街全体が放つ高出力のワイヤレス給電電磁波に、彼女のデリケートな回路が過剰反応しているのかもしれない。


「おい、エナ。大丈夫か? 顔、ちょっと赤いぞ」


「問題ありません。ただ...大宮の都会のノイズが、私の演算能力を5%ほど奪っているだけです。でも、これくらいの負荷なら、夏祭りのカッパ音頭に比べれば、朝霞台の乗り換えくらい余裕です」


彼女は強がって笑ったが、その笑顔には、一華先輩の言っていた180日の終わりへの予兆のような、はかない影が混ざっていた。


俺たちは、ミオがいるという『ホログラム・スカイレストラン』が入った高層ビルを見上げた。


2080年の大宮の空は、ドローンの軌跡で網目状に切り裂かれている。


「いました。あのアホみたいなピンクのホログラム・ドレス。ミオ様ですね」


エナが指差した先。


ビルのエントランス近くで、ミオがインテリ男と談笑していた。


彼女は大宮の街に馴染もうと、必死に背伸びをしているが、どこか浮いている。


その無理してる感が、10年も時間を共にした俺には、痛いほど分かった。


だって、俺も同じ志木の人間だからだ。



「よお、ミオ...大宮の飯は、そんなに志木の泥水スープより旨いのか?」


俺は、精一杯の自虐と勇気を振り絞って、声をかけた。


ミオが驚いたように振り返る。


「カッ、カイ!なんであんた...またなの?っていうか、その歩き方。大宮のペデストリアンデッキで、そんな志木っぽい歩き方しないでよ、恥ずかしいから!」


ミオの言葉は、相変わらず鋭いナイフだった。


隣のインテリ男が、クスクスと鼻で笑う。


「君がカイ君かい?先日は、どうも。 悪いけど、彼女は今、僕と大宮の未来について語り合っているんだ。志木の各駅停車みたいな悩みを聞いてる暇はないんだよね」


俺が返す言葉に詰まっていると、エナが一歩、前に出た。


「へぇ、未来、ですか。笑わせないでください」


彼女の瞳の青い光が、最大出力で発光してる。


大宮の夜景さえも凌駕するような、透き通った青だ。


「あなたの言う未来には、期限がありますか? 180日後に消えてしまうほどの、切実な熱がありますか? カイ様は、明日消えてしまうかもしれない私のために、わざわざ志木からこの大宮まで、足取りを重くしながら歩いてきてくれたんです。それのどこが恥ずかしいんですか!」


エナの叫びが、大宮の喧騒を一瞬だけ黙らせた。


彼女の体から、プシュッ、という小さな排熱音が漏れる。


もうオーバーヒート寸前だ。


「な、何よ、機械のくせに、熱くなっちゃってさ...」


ミオがたじろぐ。


俺は、倒れそうになったエナの肩を抱き寄せた。


彼女の体は、近所の銭湯のジェットバスよりも熱くなっていた。


「ミオ。俺の歩き方は、確かに志木だ。でもな、この足取りじゃないと、見落としちゃうものがあるんだよ。志木の柳瀬川に映る月とか、こいつが時々見せる、プログラムされてないはずの熱とか...」


俺はミオの目を見据えて言った。


「大宮のキラキラは綺麗だよ。でも、俺にはこいつの、壊れかけの熱の方が...ずっと大切でエモいんだわ」


ミオは何も言い返せなかった。


いや、俺の発言がどうでもよすぎて、言い返さなかっただけかもしれない。


ただ、彼女の瞳に、ほんの一瞬だけ...

志木で一緒に過ごした10年間の記憶が、よみがえったように見えた。



「行こう、エナ。志木に帰るぞ。俺たちの街に」


俺はエナを抱えるようにして、大宮駅の改札へと引き返した。


背後で、大宮の街が相変わらず冷たく輝いていたが、もうどうでもよかった。



帰りの電車の中。


エナは俺の肩に頭を預け、弱々しく笑った。


「カイ様。私、本当にバグっちゃったみたいです。胸の奥のコアが、志木駅の各停待ちのホームみたいにソワソワして、止まらないんです」


「ああ。それはきっと、俺のせいだな。俺が志木っぽい歩き方で、お前をここまで連れてきちゃったからだ」


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


180日のうち、すでに15日が過ぎた。


残された時間は、北朝霞から大宮までの距離よりも、ずっと短い。


「ねえ、カイ様。180日経って、私があなたを嫌いになっても...今のこの熱だけは、志木の夜空に保存しておいてくれますか?」


「保存なんてしねえよ。俺の脳みそに、直接書き込んでやる」


俺たちは、志木駅に降り立った。


ホログラムのカッパが、相変わらずマヌケな顔で「おかえりっパ!」と迎えてくれる。


世界で一番狭くて、世界で一番切ない街。


俺たちの失恋リハビリは、ここから本当の地獄と、本当の恋へと加速していく。


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