第5話

購買部の喧騒は、私にとって戦場に等しい。

飛び交う怒号、押し寄せる人波、そしてパンの香ばしさと誰かの汗が混じった特有の熱気。

いつもなら、この渦に飛び込む勇気など一ミリも持ち合わせていない。


しかし、今は違う。繋がれた左手から伝わる圧倒的な力強さが私を強引に前へと進ませる。


「ごめん、ちょっと通るよ」


零華が凛とした声を響かせると、モーセの十戒さながらに道が開いた。

銀髪という旗印を掲げた彼女の背中は、この騒乱の中で唯一揺るぎない確信を持って動いている。


彼女の指が私の指をさらに深く絡め取るたび、指先の皮膚が密着し、心臓が脈打つリズムまで支配されていくような錯覚に陥った。


「佳奈子ちゃんは何がいい? 焼きそばパン? それとも甘いもの?」

「……なん、でも……」


ようやく絞り出した声は、隣にいる彼女にすら届いたか怪しい。けれど、零華は了解とばかりに小さく頷き、慣れた手付きでメロンパンとイチゴオレを二つずつ確保した。その間も彼女の手は一度たりとも私を放さなかった。


「よし、確保。ここは人が多すぎるね。もっと、佳奈子ちゃんの声が聞こえる場所に行こうか」


彼女の視線が私の喉元をなぞるように降りてくる。

まるで、私の体の中に隠されている言葉の欠片を物理的に抉り出そうとしているみたいだ。


たどり着いたのは、旧校舎へ続く連絡通路の踊り場だった。

人通りは疎らで、使い古されたモップの埃っぽさと、窓から差し込む西日の熱だけが淀んでいる。


零華は、コンクリートの壁に背を預けると、ようやく私の手を離した。

解放された左手が、急激な温度の低下に震える。


「はい、佳奈子ちゃんの分」


差し出されたイチゴオレを受け取る。

ストローを差し込み、甘ったるい液体を流し込む。

冷たいはずなのに、胃に落ちる感触は心地良い。


「佳奈子ちゃん。さっきの話の続き、聞いてもいいかい?」


零華がパンの袋を開けながら不意に問いかけてきた。


「続き……?」

「私のこと『重い』って言った理由。あれって結局本当はどっちの意味だったのかなって」


彼女の体がじわりと距離を詰めてくる。

逃げようにも、背後には冷たい壁がある。

いわゆる壁ドンの形ではないけれど彼女の存在感そのものが壁となって私を押し潰しにかかっていた。


「……べ、つに……意味なんて……」

「嘘だ。君はあの時、私のここを見ただろう?」


零華の細い指先が自身の制服の胸元を軽く叩いた。

布地が突っ張り、彼女の豊かな曲線が強調される。

視線を逸らそうとする私の顎を彼女の空いた方の手が優しく、けれど拒絶を許さない力で持ち上げた。


「もう一度聞くね。私の存在が重そうに見えた?

それとも……触ってみたいと思った?」

「なっ……!?」


心臓が跳ね、イチゴオレを吹き出しそうになる。

何を言っているんだ、この人は。

私はただ、至近距離での密着に混乱して、脊髄反射で言葉を零しただけだ。

そこに卑猥な意図なんて——いや、なかったと言い切れるだろうか。

あの時感じた、押し潰されるような柔らかい弾力。

女子特有の甘やかな肉の重み。


「ふふ、照れてるな」


零華が楽しそうに目を細める。

彼女の顔が数センチの距離まで迫る。

鼻先が触れそうなほどの近さ。

彼女の吐息が私の唇をかすめ、本能的な恐怖とそれ以上の熱い何かが下腹部を突き抜けた。


「君のこと、もっと知りたいな。……ここがすごく苦しそうだ」


零華の視線が私の制服のボタンへと向けられる。

自虐的にただの肉の塊だと思い込ませてきた私の胸を、彼女の指先がなぞるようにゆっくりと這い上がってきた。

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