第3話

「おはよう、佳奈子ちゃん」


鼓膜に直接注ぎ込まれた甘い響きに脊髄が痺れる。反射的に背中を丸め、逃げ場を求めるように視線を泳がせた。

校門であれほどの事故を起こしておきながら、彼女は何食わぬ顔でまた同じ挨拶を繰り返している。

その神経の図太さが今の私には猛毒に近い。


(……だから、さっき会ったじゃん)


唇を噛み、胸の中で毒づく。

朝一番のやり取りで、私の精神的なエネルギーはすでに底を突いている。それなのに、彼女はキラキラとした光の粒子を振りまきながら、私の隣という安息の地に土足で踏み込んできた。


「音亀ー、皇に教科書見せてやってくれ。まだ届いてないだろうからな」


担任の放った言葉が宣告となって私に突き刺さる。


……終わった。


私の半径一メートル以内に他人が立ち入ることは、国境侵犯に等しい。

私は、重い鉛の塊でも動かすような手つきで、数学の教科書を机の中央へ滑らせた。


「ありがとう……佳奈子ちゃん、ここを教えてくれると嬉しいな。私が通ってた前の学校と進み方が違うみたいなんだ」


銀色の髪がさらりと流れ、彼女が椅子を寄せてくる。ギギッ、と床を鳴らす摩擦音が、私の早まる心拍を煽った。密着した肩から、女子特有の柔らかい熱がじわじわと伝播してくる。

薄い夏用ブラウスの生地越しに感じる彼女の体温は、私の予想を遥かに上回る温度を持っていた。


「…………あ、……ぁ……」


声が喉の奥で石のように固まる。

目の前に並ぶ数式は、今の私にとって唯一の味方だった。記号と数字だけが嘘偽りのない真実を語ってくれる。

それ以外——例えば、隣から漂うシャンプーの香りや、不意に視界に入り込む彼女の白い指先、それらはすべて私の脳を狂わせるノイズでしかない。


私は黙ってシャーペンを走らせた。

余白に平方完成の手順を書き殴る。

流暢に喋ることはできなくても、筆先なら淀みなく動く。


(この程度の基礎問題に躓くなんて、この王子様は意外と頭が悪いのか? いや、それとも私を試しているのか? もしかして、ただの嫌がらせか……?)


疑心暗鬼が渦巻く中、解答の最後に二重線を引く。

これで見ろ、と言わんばかりに教科書を彼女の方へ押しやった。


「わぁ……。佳奈子ちゃん、頭いいんだ。解き方がすごく綺麗だ」


零華が感嘆の声を漏らす。

その吐息が耳元を掠め、心臓が跳ねた。

褒められるとつい調子に乗ってしまうのが私の悪い癖だ。内心では『まぁ、この程度、教科書の例題レベルですし。これに手こずっている方がどうかしているというか……』と鼻高々になっているのだが、外に出るのは無愛想な沈黙だけである。


「そう言えば、佳奈子ちゃん」


不意に零華が声を潜めた。

そのトーンに混じった熱を帯びた響きが、嫌な予感を連れてくる。


「君、さっき校門で"重い"って言ったよね」


背筋に冷たいものが走る。やはり怒っているのだ。

助けてもらった恩人に、第一声で「重い」などという失礼な感想をぶつけたのだから。


「……す、……み……」


謝罪を絞り出そうと、震える唇を開く。

けれど、零華の口から出たのは、私の想像を絶する言葉だった。


「あれって、私の胸のこと?

 それとも、私の存在そのものかな」

「…………は?」


私は思わず顔を上げ、彼女を正面から見据えてしまった。零華は、少しだけ頬を上気させ、楽しそうに目を細めている。

その視線は、私の顔ではなく、制服のボタンがはち切れそうな私の胸元に向けられていた。


「もし胸のことなら正解。これ、結構肩が凝るんだ。佳奈子ちゃんも、見た目以上に『ありそう』だが、後でどっちが重いか確かめ合ってみるかい?」


彼女の手が机の下で私の太ももにほんの少しだけ触れた。熱い。火傷しそうなほどの熱がスカート越しに皮膚へ染み込んでくる。その一瞬の接触に私の思考回路は完全にショートした。

世の中には、挨拶の必要性を疑う私以上に、常識が欠落している人間がいるらしい。

銀髪の王子様は、救世主などではなく、私の乏しい日常を蹂躙しに来た捕食者だった。

私の平穏は、音を立てて崩れ去る。

この日から、私のズレた日常は、計算不能な狂騒曲へと変わっていくことになったのだ。

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