第2話 修行開始?ただの家事じゃん!

王都の喧騒を離れ、深い霧に包まれた「まどろみの森」。その奥深くに、一軒の古びた木造小屋がひっそりと佇んでいた。


湿った土と、青々とした苔の香りが肺の奥まで染み渡る。ルカは、かつて大陸中を震撼させた伝説の暗殺者、老ガラムの前に立っていた。


「……じいじ、久しぶり! 修行しに来たよぉ♡」


ルカが能天気に手を振ると、縁側に座り、節くれ立った手で茶を啜っていたガラムが片目を開けた。その瞳は、深淵のように鋭く、濁りがない。


「ルカか。相変わらず、気配というものをまるで持たぬな。お前の『きようさ』、さらに歪(いびつ)に育っておるようだが」 「えへへ、全部振っちゃったから。でも、勇者くんにクビにされちゃった。火力が足りないんだって」


ガラムはフンと鼻を鳴らした。 「力(パワー)で岩を砕くのは獣の業。真の技とは、岩の『理(ことわり)』に指を滑り込ませることだ。……よし、お前のその無駄に繊細な指先、わしが磨き直してやろう」


ルカは目を輝かせた。「わぁい! どんなすごい特訓? 滝を素手で割るとか、巨大な魔獣を解体するとか!?」


ガラムは無言で立ち上がり、小屋の裏手にある古ぼけた井戸を指差した。


「まずは、あの桶に水を汲め。一滴も零さず、波紋も立てずにな」 「え、それだけ? 家事じゃん!」


だが、その「家事」が地獄の始まりだった。


翌朝。森にはしとしとと雨が降っていた。 ルカの目の前には、軒先から滴り落ちる雨粒のカーテンがある。


「ルカ。その針を手に取れ」


ガラムが手渡したのは、髪の毛よりも細く、しなやかな銀の長針。


「この雨粒を突くのではない。雨粒と雨粒の『隙間』に針を通し、向こう側にある蜘蛛の巣の、一本の糸だけを弾け。雨粒を一滴でも揺らしたら、やり直しだ」


ルカはごくりと唾を飲み込んだ。 雨の音。土が水を吸う低い響き。冷たい湿気が肌にまとわりつく。 集中力を極限まで高めると、ルカの視界が変わった。


一粒一粒の雨が、まるでゆっくりと落下する水晶の球体に見える。 その球体と球体の間には、髪の毛一本分にも満たない「空間」がある。


(……ここだぁ。)


ルカの指先が、流れるような予備動作もなく動いた。 シュッ、という微かな風切り音。 銀針は、水滴の表面張力に触れることすらなく、その隙間を縫うように最深部へ。 ピン、と。 雨のカーテンの向こう側で、朝露に濡れた蜘蛛の糸だけが、ハープの弦のように震えた。


「できた! じいじ、今の見てた!?」 「……ふん。まぐれだ。次はこれだ」


ガラムが放り投げたのは、紅葉した一枚の落ち葉だった。


「その葉を半分に畳め。ただし、葉の細胞一つひとつを傷つけず、組織を断裂させることも許さん。分子の隙間に折り目を刻むのだ」


ルカは落ち葉を掌に乗せた。 カサカサとした乾いた感触。秋の終わりを告げる香ばしい匂い。 普通に畳めば、パキリと乾いた音を立てて砕けてしまうだろう。


ルカは目を閉じ、指先の感覚を「ミクロン単位」から、さらにその先へと沈めていく。 葉脈を流れるかすかな水分の脈動。細胞壁の硬さ。 ルカの指が、まるでおまじないをかけるように葉の表面をなぞった。


(えっとね、ここをこうして……痛くないように、優しく、隙間を広げてあげる感じ……♡)


それはもはや、物理的な接触というよりは「対話」だった。 ルカの指が微細に振動し、葉の分子構造が無理なく再配置される。 数分後。 ルカの手のひらの上には、少しの亀裂もなく、まるでおりがみのように完璧に二つ折りにされた、瑞々しいままの落ち葉が鎮座していた。


「……ほう」


ガラムの声に、驚きが混じる。 「お前……。ただの『器用さ』だと思っていたが、その感覚、もはや物質の最小単位にまで届いているのか」


「よくわかんないけど、一生懸命お願いしたら、葉っぱさんが『いいよー』って言ってくれた気がするんだぁ」


ルカは額の汗を拭った。精神の消耗は激しい。指先は熱を持ち、ジンジンと痺れている。けれど、不思議と心は澄み渡っていた。 これまで「なんとなく」できていたことが、明確な「技術」としてルカの中に定着していく。


「修行? なんだかお掃除と工作ばっかりだね」 「バカ者が。お前が今やっているのは、神の領域の『手入れ』だ」


ガラムは立ち上がり、一本のボロボロのナイフをルカに差し出した。 刃こぼれし、錆びつき、本来ならゴミ溜めにあるような代物。


「ルカ。その器用さで、このナイフを『研げ』。砥石は使うな。指先で錆を剥ぎ、分子を整え、空気すら切れる刃(やいば)に仕立て直せ」


ルカはそのボロナイフを受け取った。 鉄の冷たさ。錆のざらつき。死んでいる金属の悲鳴が聞こえる。


「……うん。やってみる。この子、もっと綺麗になりたいって言ってるもん」


ルカの指が、ナイフの表面を踊るように走り始めた。 シャリ、シャリ。 砥石で研ぐ音ではない。ルカの指先が、鉄の原子を直接「並べ替える」音が、森の静寂に響く。


その頃、王都では。 勇者ゼクスが、自慢の聖剣を抜こうとして顔をしかめていた。 「……おい、なんだ。鞘から抜けない。……ぬぐっ! ぐ、ぎぎぎ……っ!?」 どんなに力を込めても、聖剣は微塵も動かない。 ルカが去り際に仕掛けた、わずか一ミリの「歪み」が、最強の剣をただの重い鉄の棒に変えていた。


「ルカめ……。あいつ、一体何をしたんだ……!?」


ゼクスの怒声が響くが、ルカには届かない。 修行の合間に作った「完璧な黄金比の卵焼き」を頬張りながら、ルカは夕暮れの空を見ていた。


「あー、美味しい。きようさって、やっぱり世界を幸せにするよねぇ♡」


伝説の暗殺者が震えるほど驚愕する「神の御業」を、少女は鼻歌まじりに完成させていく。 修行はまだ、始まったばかりだ。


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