第3話 飼育

「さあ、行こう。みんな待ってるよ」


天音はそう言って、僕の家の合鍵を自分のスカートのポケットに仕舞い込んだ。「みんな」という言葉の意味を問う余裕さえ、僕にはなかった。彼女に手首を掴まれた瞬間、そこだけが熱を帯びた鉄輪で固定されたような錯覚に陥った。


旧校舎を出ると、夕焼けが校庭を赤黒く染めていた。

校門の近くで、部活帰りのクスオたちの姿が見えた。彼らは僕たちの姿を見つけると、またニヤニヤしながら手を振ってきた。


「おーい佐藤! お熱いな、そのままデートかよ!」


クスオの能天気な叫び声が、遠くで響く。僕は助けを求めるように口を開けかけたが、その前に天音が僕の腕に自分の腕を絡め、さらに密着してきた。

彼女の長い髪から、またあの甘い香りが漂う。


「ふふ、そうだよ。羨ましい?」


天音は完璧な笑顔でクスオたちに応えた。その瞬間、僕の喉は恐怖で物理的に閉ざされた。僕が何か叫んでも、彼らはそれを「幸せ者のノロケ」としか受け取らないだろう。天音という巨大な偶像が、僕の声すらも彼女の色に染め変えてしまうのだ。


彼女の自宅は、学校から少し離れた閑静な住宅街にあった。

高く聳える塀に囲まれた、重厚な洋館。門をくぐり、玄関の重い扉が閉まった瞬間、外界の音が完全に遮断された。


「ただいま」


天音の声が静かなホールに響く。

家の中は、不気味なほど整頓されていた。そして、玄関から廊下、階段に至るまで、至る所に「写真」が飾られている。

その写真を見て、僕は膝が震えるのを止められなかった。


そこにあるのは、すべて僕だった。


登校中の後ろ姿、教室でぼんやりと外を眺めている横顔、クスオとパンを食べて笑っている瞬間。自分でも意識したことのないような、無防備な僕の姿が、高級そうな額縁の中に収められている。


「……これ、いつ撮ったんだよ」


「入学式の時からだよ。優太君が自分の席に座って、不安そうにキョロキョロしてた時から。ああ、この子は私のために用意された、真っ白なキャンバスなんだって確信したの」


天音は僕の背中に回り込み、そっと二階の部屋へと促した。

案内されたのは、彼女の自室だった。

部屋の中は、さらに異常だった。壁一面に、僕がこれまでの人生で「捨ててきたもの」がディスプレイされていた。


小学生の頃に使っていた消しゴムのカス、中学生時代のテストの答案用紙、そして、さっき彼女が見せたあのノート。


「優太君が捨てたものは、全部私が拾ってあげたの。君を構成するすべてのピースを、私が持っているのよ。だから、優太君自身も、私の所有物になるのが自然でしょう?」


天音は僕をベッドに座らせると、部屋の入り口にあるスイッチを押した。

カチリ、という電子音とともに、窓のシャッターが閉まり、部屋は完全な密室となった。


「おじさんとおばさんには、『特別に用意したゲストルームに泊まってもらう』って伝えてあるから。今夜はゆっくりお話ししようね。優太君のこれからの人生を、どんな風に塗りつぶしていくか……」


彼女は僕の膝の上に乗り、両手で僕の首筋を優しく撫でた。

その指先には、僕の家の合鍵が握られている。


「ねえ、優太君。もう、何も考えなくていいんだよ。成績も、将来も、友達も。全部私が決めてあげる。君はただ、私の箱の中で、私だけを見ていればいいの」


彼女の瞳は、夕闇の中で爛々と輝いていた。

僕は逃げ出すことも、拒絶することもできたはずだ。けれど、この異常なまでの執着と、自分という存在をまるごと肯定(あるいは破壊)してくれる快感に、意識が溶けそうになっていた。


「……天音、さん」


僕が初めて彼女の名前を呼ぶと、彼女は子供のように無邪気に、そして酷く不気味に微笑んだ。


「いい子。……さあ、鍵をかけようか。世界で二人きりになるために」


静まり返った部屋に、錠前が閉まる冷たい金属音だけが響いた。


明日、学校へ行けば、クスオはまた「羨ましい」と言うだろう。

けれど、その時僕の隣にいる一ノ瀬天音は、僕の魂を半分食いつぶした後の怪物なのだ。

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幸福な絶望 ひふみ白 @tack310

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