第2話 籠絡

彼女がテーブルの上に置いたのは、一冊のボロボロの数学ノートだった。

それは、三日前に僕が使い切り、誰にも見られないよう自宅のゴミ箱の底に隠して捨てたはずのものだった。


「これ……どうして、一ノ瀬さんが持ってるの……?」


「ゴミ箱から助け出したの。優太君が書いた文字、優太君が考えたこと、全部ゴミにしちゃうなんて勿体ないもの。……あ、中身は全部読ませてもらったよ。一ページも欠かさず。何回も、何回も。優太君の字、すごく可愛いね」


天音は、まるで聖遺物でも扱うような手つきで、汚れたノートの表紙を愛おしそうになぞる。

そして、ゆっくりとこちらへ歩み寄ってきた。

上履きの音が、カツン、カツンと乾いた音を立てて静寂を刻む。


「優太君、すごく怖がってるね。心臓の音がここまで聞こえてきそう」


「やめてくれ……何が目的なんだ。僕みたいな、何の特徴もない奴を構って、何が楽しいんだよ」


僕は壁に追い詰められた。

天音は、僕の胸元にそっと手を添えた。柔らかな手のひら。けれど、そこから伝わる温度は驚くほど低く感じられた。


「理由? そんなの決まってるじゃない。優太君はね、『空っぽ』なの」


彼女の顔が、目と鼻の先まで近づく。彼女の澄んだ瞳の中に、恐怖に引き攣った僕の顔が歪んで映っていた。


「成績も、運動も、性格も。全部が平均以下で、何の色もついていない。他の誰の記憶も、誰の執着も入っていない、真っさらで空っぽな箱。……だからこそ、私が全部詰め込めるでしょう? 他の誰でもない、私だけの『モノ』に」


天音は、僕の制服のポケットから、そっと何かを取り出した。

それは、今朝失くしたと思っていた、僕の家の合鍵だった。


「今日から、優太君の時間は全部私のもの。おじさんとおばさんには、もう連絡しておいた

よ。『優太君はしばらく私の家で勉強を教えることになった』って。……ねえ、嬉しいでしょ?」


彼女は満面の笑みを浮かべた。

それは、誰もが憧れる、あの聖母のような微笑みだった。

けれどその瞳の奥には、僕という存在を完全に解体し、自分好みに塗り潰そうとする、底知れない狂気が渦巻いている。

「……あ、あ……」

声が出ない。


クスオたちは今頃、「佐藤の奴、今頃いい思いしてるんだろうな」なんて笑っているだろう。

世界中で、僕が今この瞬間に壊されようとしていることを知っているのは、目の前の美しき捕食者だけだった。

天音は僕の頬を両手で包み込み、耳元で熱っぽく囁いた。


「大丈夫だよ。痛いことはしない。ただ……君のすべてを、私で塗り潰してあげるだけだから」


恐怖と、そして抗えないほどの「選ばれた」という歪んだ高揚感。

僕は、彼女という檻の中に、自ら足を踏み入れるようにして、その冷たい抱擁を受け入れた。

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