幸福な絶望
ひふみ白
第1話 羨望
「おい佐藤、一ノ瀬さんがまたお前の方見てたぞ。お前、マジで前世でどんな徳を積んだんだよ?」
昼休みの喧騒の中、隣の席のクスオが、僕の背中を無遠慮に叩いた。その衝撃で、購買で買った安っぽい焼きそばパンから紅生姜が床に転げ落ちた。
「……気のせいだって。ただの偶然だよ、クスオ」
「偶然が毎日続くかよ! いいよなあ、お前みたいなパッとしない、成績も運動も平均以下の奴が、あんな学園のアイドルにロックオンされるなんて。宝くじに当たったようなもんだぜ。俺なら一生の運を使い果たしたって喜ぶわ」
クスオは「代わってくれよ」と無邪気に笑い、周囲の男子もそれに同調して囃し立てる。
彼らには見えていないのだ。
窓際で女子グループの中心にいる一ノ瀬天音が、ふとした瞬間に僕へ向ける視線を。
それは恋する乙女の熱視線などではない。顕微鏡で微生物を観察するような、あるいは自分の所有物を検品するような、どこか無機質で圧倒的な「管理」の視線。彼女が微笑むたびに、僕の胃の裏側は冷たい氷を押し当てられたように引き攣った。
「……僕、ちょっとトイレ」
逃げるように席を立った。クスオの「照れてんじゃねえよ!」という茶化しが背中に刺さる。
便所の鏡に映る自分の顔は、死人のように青ざめていた。
おかしい。何かが確実におかしいのだ。
僕の日常は、数週間前から少しずつ、音を立てずに削り取られていた。
五時間目の数学の授業。教科書を開こうとして、僕は指先を止めた。
ペンケースの中に、見覚えのない銀色のヘアピンが一本、静かに横たわっていた。
代わりに、僕がお気に入りだった、少し塗装の剥げたシャープペンシルが消えている。
(……いつ、入れ替わった?)
休み時間、トイレに立ったわずかな隙か。それとも体育の着替えの最中か。
心臓の鼓動が耳の奥でうるさく鳴り始める。
ヘアピンを手に取ると、微かに甘い、天音と同じ香りがした。
彼女は「ここにいた」という痕跡を、僕のプライベートな領域に確実に刻み込んでいる。逃げ場などどこにもないのだという事実を、物言わぬ金属が告げていた。
放課後を告げるチャイムが、死刑宣告の鐘のように響いた。
僕は急いで荷物をまとめ、一番に教室を飛び出そうとした。しかし、それを阻んだのは、廊下を塞ぐクスオたち男子生徒の群れだった。
「おい佐藤、逃げるなよ! さっき一ノ瀬さんから伝言預かってんだ。『放課後、旧校舎の資料室で待ってる』ってよ」
「クソッ、羨ましすぎて死ねるわ。お前、ちゃんと男見せてこいよな!」
クスオは僕の肩を掴み、半ば強引に旧校舎の方へと押しやった。
逃げ道はなかった。ここで彼女を拒めば、僕は「学園のアイドルを袖にした大罪人」として、このクラスでの居場所を完全に失うだろう。天音はそれを理解した上で、わざと僕の友人たちを「伝言係」に使い、僕の周囲に目に見えない柵を立てたのだ。
人気のない旧校舎。床板がギシギシと悲鳴を上げるたびに、僕の正気も削られていく。
三階の突き当たり。埃を被った「資料室」のプレートが斜めに掛かっていた。
扉を押し開けると、西日の差し込む教室内で、天音が窓を背にして立っていた。
逆光で表情は読み取れないが、彼女が手に持っている「何か」を見て、僕は足の先から血の気が引くのを感じた。
「……遅かったね、優太君。待ちくたびれちゃった」
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