【中編】第4話 説明という罪

 処理は、再開されなかった。


 上役の誰かが怒声とともに業務を制止したわけではない。

 公式な職務停止命令が、厳封された書面の形で下ったわけでもない。

 だが、次の動作へ――ペンを走らせる、あるいは書類をめくるという、日常の些細な一歩へ――進む者は、この広大な記録局第三課の中に、ただの一人も存在しなかった。


 記録局第三課は、音もなく、沈黙のまま「固着」している。

 それは、予期せぬ事態に直面した際に見られる、あわただしいパニックや混乱ではなかった。混乱ならば、そこには少なからず人間のざわめきや、困惑という名の熱量が生まれるはずだ。

 しかし、今ここにあるのは、高性能な計算機が回復不能な論理エラーを吐き出した直後のような、完全な「判断不能」による静止だった。


 書類は机の上に、分規で測ったかのような完璧な角度で揃えられたまま、手つかずで残っている。

 ペン先は、今まさにインクを紙に吸わせようとした瞬間のまま空間に固定され、それ以上インクが滲むことすら、この凍りついた「思考の真空」では許されていないかのように見えた。

 誰も、視線を上げない。

 誰も、隣に座る同僚の様子を伺おうとすらしない。

 だが、同時に誰もが「通常」という名の安寧な慣性に戻る資格を、永久に喪失してしまったことを、肌に刺さる冷気で悟っていた。


 私は、その死に絶えた墓地のような静寂の只中で、一人冷徹に、そして絶望的に理解していた。

 これは、単なる感情的な反発でも、余所者に対する組織的な排除の予兆でもない。


 この世界の、この部屋を成立させていた「処理条件」が、私のたった一言によって、根底から書き換えられてしまったのだ。


 これまで、この場所で成立していた「秩序」という名の処理は、極めて危うく、それでいて堅牢な三つの前提に依存していた。

 一つ、互いに「察する」ことで摩擦を消すこと。

 一つ、異物を「流す」ことで均衡を保つこと。

 そして何より、決定的な「責任を誰の身にも発生させない」こと。


 だが今、その前提の最も中核にある、唯一の心臓部が、私の不用意な――あるいは避けることのできなかった必然的な――一言によって、無残に破壊されている。


 ――説明が、発生した。


 それだけで、この精緻に組み上げられた巨大な社会システムを、機能不全という奈落に追い込むには十分すぎた。

 誰が論理的に正しいのか。誰が致命的な計算違いを犯したのか。これから組織として何をなすべきか。

 そんな二次的な、瑣末な問題を議論する必要すらない。


 「説明」という、本来ならば相互理解を助けるはずの光が、一度でもこの暗がりに言語化して投じられた以上、この場はもはや「察しだけで回る閉じた系(クローズド・システム)」ではなくなったのだ。


 誰もが次の動作に進めない理由は、残酷なほど単純明快だった。

 この沈黙の中で、もし誰かがペンを一本でも不自然に動かした瞬間、その動作はもはや「無意識の慣性」ではなく、明白な「個人の意志ある判断」として解釈されるようになる。

 判断は、必然的に、逃れようのない「責任」を生む。

 責任は、消去不能な「公的な記録」となる。

 そしてその記録は、この国において最も畏るべき「上位の観測者」へと、一直線に到達する。


 この部屋に詰め込まれた数十人の職員の誰もが、その破滅的なアルゴリズムを、生存本能のレベルで骨の髄まで“知っている”。

 だから、誰も動けない。動くことは、このアルクシオンという世界における、確実な社会的抹殺を意味するからだ。


 時間だけが、石造りの壁に反響することもなく、残酷なほど平等に、そして確実に積み重なっていく。

 部屋のどこにも、時計の秒針が奏でる規則的な音は聞こえない。

 だが、私の脳内にある精密な時計は、一秒、また一秒と、確実に積み上がっていく「処理遅延」という名の致命的な負債を、冷徹にカウントし続けていた。


 私は、机上の書類から目を離さずに、意識の海をさらに深く潜っていった。

 ――これは、もはやこの第三記録室という一画だけの、局所的なエラーではない。


 今、ここで起きている事象は、アルクシオンという世界の運用レイヤーが、一段、上の階層へと切り替わった明白な兆候なのだ。

 察しによる分散処理という名の防壁が破綻し、「説明という罪が発生した」という事実だけが、特異点として抽出された。そしてそれは今、私たちの頭上を走る不可視の情報回路を通って、どこか別の、より広大な、より冷酷な層へ送られたのだ。


 どこへ?


 答えは、考えるまでもなく、私の脳内にすでに書き込まれている。

 だが、それを今この場で声に出す必要はない。そんなことをすれば、さらにこの空間の圧縮率は高まり、誰かの精神の器が物理的に粉砕しかねないという予感があった。


 不意に、部屋を充たしていた張り詰めた空気が、わずかに、本当にわずかにだけ緩んだ。


 誰かが席を立ったわけではない。

 何かが崩れ落ちる音がしたわけでもない。

 だが、私の皮膚を四方八方から刺していた、あの逃げ場のない高圧的な圧力が、一瞬だけ霧散するのを感じた。


 それは、決して人為的な変化ではなかった。

 この部屋全体の処理ステータスが、「エラーによる強制停止」から、「上位判断待ち」という名の保留状態に移行した、システム的な感触だった。


 進行停止ではない。データの破棄でもない。

 ただ、天秤の針が止まったかのような、「保留(Pending)」という名の、空白の時間。


 私は、ようやくその「上位」という概念の正体を、より解像度の高いイメージとして捉え直した。

 ここで、王妃という絶対者が直接、物理的に姿を現す必要はない。もし彼女がその豪華なドレスの裾を引いてここに現れたなら、それはもはや事務的な「処理」の範疇を超え、問答無用の「裁定」あるいは「粛清」という名の暴力になってしまうからだ。


 だが――。

 説明が発生したという事実だけは、すでに電気的な速さで「彼女」の元に届いている。

 誰が、どのような論理で説明したのか。その内容が、どれほど正鵠を射ていたのか。

 それらの詳細が精査されるのは、もっと後の、絶望的なフェーズだ。


 今はただ、一つのフラグが静かに、しかし鮮烈に立てられただけなのだ。

 「察しによる運用という名の嘘では、もはや処理しきれない、定義外の事象が起きた」という、警告の灯。


 私は、背筋の奥に、氷の刃を押し当てられたような鋭い冷たさを感じた。

 これは単純な警告ではない。明確な制裁でもない。

 だが、確実に「次の段階」が扉の向こうで待ち構えていることを、世界そのものが私に告げている合図だった。


 王妃が直接、その瞳に映すべき場所。

 王妃がその冷徹な意志をもって、最後の審判を下すべき場。

 そこへ至るための、もう引き返すことのできない不可逆な条件が、今、私の手によって満たされつつある。


 私は、あえて視線を上げない。

 隣で凍りついている誰とも、決して目を合わせない。

 ただ、指先のわずかな震えを押し殺しながら、重くなったペンを持ち直し、書類の隅にある、どうでもいい余白に、何の意味も持たない数値を機械的に書き連ねていく。


 今さら異物として、これ以上目立つ必要はない。

 「説明者」として、再び正義の声や論理の刃を振りかざす必要も、もはやないのだ。

 すでに説明は終わっている。私の放った、たった数行の言葉は、すでにこの世界の脆弱な論理構造を永久に変質させてしまったのだから。


 あとは、この重苦しい沈黙という名の果実が、誰の手によって収穫され、どこへ運ばれていくのか。

 それを、ただ死を待つ囚人のように、静かに待てばいい。


 処理は、依然として止まったままだ。

 ペンを握る周囲の同僚たちの指先は、今も石像のように微動だにしない。

 だが、世界という名の巨大で冷酷な歯車は、確実に、そして無情な響きを立てながら、次の階層へとその回転を移し始めている。


 私だけが、その不可避な計算結果を、暗闇の底で見つめていた。

 そしてその計算の果てに待っているのが、救済などではないことを、私は誰よりも深く確信していた。

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