【前編】第4話 説明という罪
その日も、業務は静かに始まった。
記録局第三課を包む空気は、相変わらず均質で、冷たく、そして不自然なまでに澄んでいる。
昨日と同じ。先週と同じ。あるいは、この王宮が石の一塊であった数千年前から、一度として揺らいだことのない温度。
そこには確かに数十人の人間が密集し、それぞれの肺で酸素を消費しているはずなのに、個としての意志や、人間特有の「揺らぎ」が一切感じられない。
完成度の高い、無機質な沈黙だけが、防腐剤のように部屋の隅々にまで充填されていた。
机に向かう職員たちは、誰一人として隣と視線を交わさない。
開始を告げるベルも、号令も、あるいは「おはよう」という些細な挨拶すらもない。
だが、見えない精緻な歯車が噛み合うように書類は動き、数字は埋まり、処理は淡々と進んでいく。
その滑らかな光景は、一見すると高度に洗練された組織のようにも見える。しかしその実態は、ただ全員が「自分自身の責任」という重力から逃れるために、思考を停止させ、周囲の慣性に身を任せているだけの集団自殺に近い。
私は、その流動する無意味な情報の奔流の中で、ひとつの「違和感」を見つけていた。
それは、意識して注視しなければ見逃してしまいそうなほど、実にごく些細なものだ。
前方の席に座る職員が積み上げた書類の束。その端が、机の縁から、ほんの数ミリ――おそらくは三ミリほどだろうか――、不自然にはみ出している。
整理されていないわけではない。雑なわけでもない。
ただ、「揃っていない(・・・・・・・)」のだ。
周囲の職員たちの、死んだ魚のような瞳には、そのはみ出した紙片が確実に映っているはずだ。
だが、誰もそれを直そうとはしない。誰も、その「ズレ」に意味を見出そうとしない。
見ること、気づくこと、そしてそれに手を触れることは、この部屋においては「判断」を意味し、それはそのまま「責任」へと直結するからだ。
――この前提条件、微妙に違うな。
私の脳内で、論理の警告灯が音もなく、しかし激しく点灯した。
処理の最終的な出力結果だけを見れば、数値は統計学的な近似値として、かろうじて正しく収束しているように見える。
だが、計算の全プロセスを脳内で逆算(リバース・エンジニアリング)したとき、そこに至る前提条件が、人によって、あるいは工程の段階によって、わずかに、しかし決定的に異なっていることが判明した。
誤差としては、今はまだ問題にならないレベルだ。
このシステムの持つ「あやふやな寛容さ」が、その程度のズレを吸収し、平均化してくれている。
今は(・・)、まだ。
だが、数学の世界において、初期条件の微細なズレは、時間の経過とともに「カオス」を招く。
一度生じた論理の裂け目は、自己増殖的に拡大し、やがて修正不可能な形で積み上がり、いつかシステム全体の定義そのものを根底から突き崩す巨大な破綻へと繋がる。
それは、今この瞬間にも、静かに、確実に進行している死の宣告だった。
私は深く息を吸い、そっと吐き出した。
肺に溜まる冷たい空気が、私の理性をさらに研ぎ澄ませていく。
私の呼吸が、意図せずとも周囲の一定のリズムから、わずか一拍だけ遅れる。
ペンを握りしめる指先に、自然と力が入る。
――黙っていれば、今日もこの「平穏な空気」は保たれる。
――口を出せば、この美しい沈黙のベールは、跡形もなく引き裂かれる。
選択肢は、吐き気がするほど単純明快だった。
そのとき。
張り詰めた静寂を裂くように、前方の席から、低く、どこか安堵を含んだ微かな声が漏れた。
「……まあ、察して進めよう」
それは、誰に対する命令でもなければ、正式な提案ですらない。
ただの独り言に近い、この場を支配する「停滞」への、無責任な合意の確認。
「不確かなものを、不確かなまま飲み込もう」という、このアルクシオンという亡霊に取り憑かれた場所特有の呪文だった。
その瞬間、私は理解した。
ここで私が何も言わなければ、この致命的な論理のズレは、正式に「見なかったこと(存在しないもの)」として登録される。
誰の責任にもならず、誰の記憶にも残らない。
そうやって、この部屋は、この国は、今日も安全に――破滅という終着駅へと一歩近づきながら――何事もなかったかのように回り続けるのだ。
私は、ペンを置いた。
カタン、という小さな、しかし鋭い硬質の音が、静寂の湖面に巨大な石を投じるように響き渡った。
声を荒げる必要はなかった。
感情を乗せて叫ぶ必要もない。
正解を声高に主張して悦に入る気もなければ、ましてや誰かを無能だと罵倒して責めるつもりも毛頭ない。
ただ、私は「一段だけ」、隠されている因果の鎖をこの部屋の全員に可視化させる。
「この前提のまま進めると、もし将来的に不具合が出た場合。その責任の所在は――」
私は、机の上に置かれた、わずかにはみ出した書類の一点を、鋭い指先で軽く示した。
「物理的な証拠として、明確に『ここ』に、残ります」
それだけだった。
私の声は、反響することもなく、部屋を埋め尽くす分厚い沈黙の壁に吸い込まれた。
――そして、部屋が、死んだ。
誰も、反論しない。
誰も、「そんなはずはない」という否定の言葉を投げ返さない。
誰も、私の言葉を間違いだと言って打ち消そうとはしない。
否定できないほどに明白で、残酷な正論。
誰もが、心の奥底で予感していながら、決して直視しようとしなかった醜悪な真実。
理解しているからこそ、誰もその言葉を受け取ることができない。
その言葉を拾い上げた瞬間に、その「意味」の重みで自らの安泰な立場が粉々に砕け散ることを、本能的に知っているからだ。
椅子の脚が床を擦る音が、ピタリと止まった。
紙をめくる、あの乾燥した音が、完全に消えた。
ペン先が紙を叩く、鼓動のように一定だったリズムが、完全に途絶えた。
時間だけが、ただ残酷に、誰に対しても平等に進んでいく。
空気だけが、目に見えない巨大な力で圧縮され、氷のように冷えていく。
私は、悟った。
今、私は「説明」という名の、この世界において最も取り返しのつかない罪を犯してしまったのだ。
相互理解を深めるためではない。
未来を良くするための健全な議論のためでもない。
ただ、これまで救いのある霧の中に隠されていた「責任の所在」を、逃れようのない解像度で可視化してしまった。
「察して」動く世界では、責任は霧のように、あるいは空気のように拡散していた。
それは誰のものでもなく、全体という概念の中に溶けていた。
だから、誰も個別に傷つかずに済んでいた。失敗しても「不運だった」で済ませることができた。
だが、言葉にした瞬間。
霧は冷酷な物理的輪郭を持ち、回避不能な質量を持ち、特定の誰かの足元に、逃げ場のない鉄球となって落ちる。
それが、彼らの抱く、死よりも、拷問よりも深い恐怖の正体だった。
騒音は戻らない。
だが、私に対する直接的な排除や怒鳴り声も起きない。
その代わり、私はこの瞬間、彼らの脳内で「再分類」されたのだ。
「扱いにくい新入り」でも、「血気盛んな理想主義者」でもない。
ただそこに在るだけで周囲を汚染し、積み上げてきた平穏を破壊する――
極めて性質の悪い、触れてはならない「危険物」として。
そのとき。
沈黙が、止まった。
音が消えたわけではない。
時間が止まったわけでもない。
だが、この部屋を成立させていた「処理」が、確かに一段階、上位から中断された。
私は初めて理解した。
この空間は、閉じた系ではなかったのだと。
第三記録室は、ただの末端ではない。
観測される可能性を、常に内包した場所だった。
説明が発生した瞬間。
責任が言語化された瞬間。
この部屋は、制度ではなく、世界の側に検知された。
誰かが、見ている。
個人ではない。管理職でもない。
この部屋の運用結果を確認する者ですらない。
――ただ、「説明が発生した」という事実だけを、無言で受理する視線。
その視線が触れた瞬間、この部屋は「進めない状態」に移行した。
誰も指示を受けていない。誰も止めろとは言われていない。
だが、誰一人として、次の動作に移れない。
処理が止まったのだ。理由ではなく、沈黙によって。
私は、それを理解した瞬間に、その存在を幻視した。
王妃。
彼女がこの部屋に「いる」わけではない。
彼女がここを見に来たわけでもない。
ただ、この部屋が――王妃の観測対象に含まれてしまった。
それだけで、十分だった。
発言はない。評価もない。是非すら示されない。
だが、
「説明が発生した事実」
「沈黙による処理停止」
この二点だけが、世界の上位層に確定した。
それが分かったとき、私は初めて、自分がどこまで踏み込んだのかを理解した。
説明したのは、正しさのためではない。理解のためでもない。
私は観測条件を満たしてしまったのだ。
私は、視線を上げない。上げる必要がない。
彼女は「見る存在」ではなく、沈黙を成立させる側なのだから。
私は席に戻った。
問題は一旦、回避された。
だが、この部屋を包んでいた「察しろ」という均衡は、完全に破壊された。
説明は成功した。
居場所は消えた。
それでいい。
一度でも言語化された責任は、もう二度と、霧には戻らない。
ペンを握り直す。
指先は、静かだった。
次に誰かが口を開くとき。
この沈黙が、処理再開なのか、恒久停止なのか。
私は、もう計算を終えている。
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