【後編】第4話 説明という罪

 その日は、結局、最後まで何も起こらなかった。


 期待していたわけではない。だが、覚悟していたような劇的な終幕――例えば、衛兵による即時の拘束や、上役による激しい叱責――は訪れなかった。

 私が「説明」という名の鋭利な刃を、この平穏な沈黙の心臓に突き立てた後も、誰かが罪を告げられることもなければ、公式な謝罪を求められることもなかった。

 廊下に騎士団の重い軍靴の音が響くこともなく、青白い顔をした査問官が突然現れて、過去の帳簿を血眼でめくり始めることもなかった。


 そこには怒号も、命令も、あるいは慈悲深い判決すらも存在しなかった。

 記録局第三課は、ただただ静かに、その機能を半分ほど停止させたまま、泥のように重く冷たい沈黙の中で、定められた一日を終えた。


 終業を告げる鐘の音は鳴らない。

 だが、窓の外の影が石畳の特定の亀裂に達したその瞬間、見えない指揮者がタクトを振ったかのように、誰からともなく椅子が引かれた。

 書類が揃えられ、インク瓶の蓋が閉められ、机の上が「何事もなかったかのような形」に整えられていく。

 それは、処理の再開ではなかった。

 それは、敗北を認めることもない、音もなき「撤退」だった。


 今日という一日は、この組織において「処理」されなかった。

 かといって、完全に「無かったこと」にされ、記憶の彼方へ棄て去られたわけでもない。

 このアルクシオンという、責任を霧散させることで成立している世界において、それは最も不吉で、最も不気味な「保留(ペンディング)」の形だった。


 私はゆっくりと席を立ち、周囲の職員たちと歩調を合わせるようにして通路へ向かった。

 あえて、他の誰よりも半拍だけ遅れた、意図的な違和感を伴う足取りで。

 誰とも目を合わせない。誰からも声をかけられない。

 だが、私の背中に突き刺さる無数の視線だけは、物理的な質量を持って、そこに「異物」が存在することを執拗に告げていた。


 ――私には分かっている。

 これは、許されたのではない。

 単に、この場の誰もが、私という現象を「どう処理すべきか」という解を導き出せなかっただけなのだ。


 第三記録室で起きた機能停止は、誰かの個人的な慈悲で止められたわけではない。

 世界という名の巨大な演算システムそのものが、「この事象は末端の論理層では処理しきれない」と、冷徹な例外処理(エラー・ハンドリング)を下したに過ぎない。


 説明が発生した。

 責任が言語化された。

 それだけで、この平穏な末端の記録室は、もはや通常の運用範囲外(アウト・オブ・バウンズ)になったのだ。


 私は重厚な扉を抜け、冷たい回廊へと出た。

 石造りの床に反響する自らの靴音は、いつもよりもわずかに鈍く、重く響く。

 肺の奥まで澄み渡るような夜の冷気。しかし、私の思考だけは、出口の見えない迷宮のように混濁し、静かな熱を帯びていた。


 背後で扉が閉まる音はしなかった。

 閉める必要がないからだ。

 第三記録室は、今この瞬間も、職員たちが去った後もなお、「停止したままの状態」でそこに存在し続けている。

 それは廃棄でも、封鎖でもない。

 ただ、上位存在による「裁定」を待つだけの、永遠に続く空白の秒針。


 私は歩きながら、自らの犯した「罪」の正体を、数学的な冷徹さをもって反芻していた。


 この国において、説明とは、相手に正しさを示すための道具ではない。

 より深い理解を求めるための、人間らしい歩み寄りでもない。

 アルクシオンという社会において、それは「上位の視線」を強制的に呼び込むための、最も暴力的な条件提示なのだ。


 誰かが言葉を用いて「なぜ」の因果を語った瞬間、その場はもはや当事者たちのものではなくなる。

 個々の善意も、悪意も、長年の功績も、あるいは無能さすらも、もはや何の意味も持たなくなる。

 説明が発生したその座標は、ただの「観測対象」として、世界から無残に切り出されてしまうのだ。


 私は、まだ裁かれていない。

 だが、もう二度と、この沈黙の群れの中に紛れて隠れることもできない。


 「説明者」という名の役割を一度でも引き受けてしまった者は、必然的に「次の段階」へと送られる。

 それは必ずしも物理的な処罰とは限らない。あるいは、皮肉な昇格ですらないかもしれない。

 ただ、世界のより深部へ――論理が物理を支配し、沈黙が何よりも重い意味を持つ「システムの中心部」へと、抗いようのない力で引きずり出されるのだ。


 王妃が私を呼んだわけではない。

 王妃が今この瞬間に何らかの魔法的な命令を下したわけでもない。

 だが、私が今日、あえて踏み越えた一本の境界線は、致命的な不連続点として、確実に彼女の広大な視界の端に届いた。

 この精緻な世界を維持するための観測者にとって、それは無視できない「計算ミス」のようなものだ。

 それで、十分なのだ。


 第三記録室は、明日も同じ場所に存在するだろう。

 今日固まっていた職員たちは、一晩眠れば、また元の「察し」と「流し」のリズムを取り戻し、責任を霧散させながら、何事もなかったかのように業務を再開するかもしれない。

 あるいは、音もなく組織そのものが再編され、昨日までの隣人の名前すら忘れてしまうのかもしれない。


 だが、一度でも「説明」が発生してしまった場所は、もう以前と同じではいられない。

 たとえ明日からまた沈黙が続いたとしても、その沈黙はもう「無垢」ではなくなる。

 それは、常に「見えない誰か」に見られていることを意識した、臆病な演技としての沈黙に変質してしまうからだ。


 私は、回廊の中ほどでふと歩みを止め、窓から王宮の奥深くを見下ろした。

 夕闇の中で、光と影が幾何学的な模様を描きながら重なり合う、巨大で静謐な構造体。

 そこは、人が安らぎを持って暮らす場所というよりは、膨大な思考と権力を、ただ一定の規則に従って処理し続けるための、冷酷な計算機に近い。


 私は知っている。

 次に私が立つことになる座標は、もはやあの、埃っぽい第三記録室ではない。


 説明が決して許されない場所。

 だが、皮肉にも、緻密な説明なしでは一秒たりとも成立しない場所。

 そこに至って初めて、私は「絶対的な観測者」としての王妃と、同じ空間の空気を共有することになるだろう。


 そのとき、彼女は私を救わない。

 私の提示した正しさを、誰の前で証明してくれることもない。

 彼女はただ、深淵のような瞳で、沈黙のまま選別するのだ。


 説明という、この世界における最大の大罪を犯した者が、

 それでもなお、この歪んだ世界を動かすための「有能な部品」として価値があるのかどうかを。


 私は再び、歩き始める。

 迫りくる運命から逃げるでもなく、かといって、無謀に抗うでもなく。

 ただ、自らの導き出した計算式に従って、一歩ずつ、重い石床を踏みしめる。


 一度でも言語化され、物理的な質量を持ってしまった責任は、もう決して霧には戻らない。

 そして、このアルクシオンという世界は――責任という名の呪いを語れる者を、決して野放しにはしない。


 私は暗い廊下の先にある、自分の居室へと続く階段を見上げた。

 明日の朝、私を連れ去る迎えが来るのか。それとも、更なる深い沈黙が私を待っているのか。

 そのどちらであったとしても、私の導き出した「解」は、もう揺らぐことはない。

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