【後編】第3話 理由なき正しさ

 その日は、最後まで、何事も起こらなかった。


 不条理に誰かが叫び声を上げることもなければ、魔導具が過負荷によって火花を散らすこともない。

 重厚な廊下に騎士団の軍靴が鳴り響くことも、冷徹な査察官が冷ややかな視線とともに部屋を検分しに来ることもなかった。

 記録局第三課は、いつも通りの、耳の奥が痛くなるような沈黙を保ったまま、定められた定刻通りに、その日の全業務を淡々と終えた。


 波風一つ立たない、凍りついた湖面のような平穏。

 だからこそ、私は確信していた。

 今日という一日こそが、この部屋にとって、そしてアルクシオンという国家にとって、最も危険で、かつ致命的な一日であったのだと。


 この場所には、終業を告げる鐘の音も、一日の労をねぎらう社交辞令も存在しない。

 だが、見えない指揮者がタクトを振ったかのように、誰からともなく椅子が引かれ、散らばっていた紙が揃えられ、乱れた机の上が「終わりの形」へと整えられていく。


 その、呼吸すらも同期しているかのような、滑らかで無機質な集団動作の中で、私はある残酷な事実に気づいた。


 あの、午前中に判断を誤った若い職員に、最後まで、誰も近づかなかった。


 物理的な距離は、昨日までと変わらないはずだ。

 あからさまな罵倒も、不当な排除もない。

 彼の机の上には、明日の分の書類も、他の者と全く同じ分量だけ、当然のような顔をして置かれている。

 しかし、そこに「体温」はない。


 ここでは、失敗した者は即座に処刑されたり、追放されたりするのではない。

 ただ、徐々に、静かに、そして誰にも気づかれないほどの速度で、「信用という名の文脈」から外されていくのだ。


 彼は明日も仕事を与えられるだろう。席も用意されている。

 しかし、彼がそこに「存在する」という事実に付随すべき、周囲との論理的な接続――信頼、期待、あるいは最低限の共感――が、完全に断たれている。

 それは、生きながらにして、この沈黙の共同体の「影」へと追放されるに等しい、言葉なき儀式だった。


 私はゆっくりと椅子から立ち上がり、自分の荷物をまとめた。

 あえて、周囲の流れるような集団動作より、半拍だけ遅く、不器用なリズムで動く。

 

 それは、もはや無意識の抵抗ではない。

 自分がまだ「理由を求める異物」であることを忘れないための、意図的な遅延だ。

 自分という個体の輪郭を、この溶け合うような無思考の沈黙に浸食させないための、ささやかな精神の楔(くさび)だ。


 扉へ向かう途中、私はあの若い職員の背中を、薄暗い部屋の光の中に捉えた。

 彼は、誰よりも早く席を立ち、誰よりも早く出口へと向かっている。

 その歩調は速く、一見すれば迷いがないように映る。


 だが、そこには午前中まで彼を支えていたはずの、あの「自律的な確信」が、微塵も残っていなかった。


 ――次は、間違えない。

 ――もっと深く、空気を読む。

 ――もっと、誰よりも鋭敏に、この沈黙を「察する」。


 彼の丸まった背中が、そう必死に、悲鳴を上げるように呟いているのが、数学的に解を求めるよりも痛切に、そして鮮明に伝わってきた。

 彼は、自らの判断が「なぜ」間違っていたのかを検証することを、恐怖とともにやめたのだ。

 ただ、「周囲という名の怪物」との乖離を埋めることだけに、残された全神経を注ごうとしている。


 私は、思った。

 この世界は、人を直接的に罰したり、傷つけたりはしない。

 代わりに、人を静かに、かつ不可逆的に“調整(アジャスト)”するのだ。


 正しさを教えはしない。

 理由を説明もしない。

 ただ、失敗した際の「居心地」だけを、生存本能に直接訴えかけるほど確実に、悪くする。


 そうすれば、人は自ら、より慎重に、より無批判に、より安全な「思考停止の深淵」へと後退していく。

 それは教育ではない。

 矯正ですらない。

 環境による、個の死滅と、全体というシステムへの最適化だ。


 扉を開け、廊下に出ると、夜の気配を孕んだ外気が肺の奥まで流れ込んできた。

 それだけで、少しだけ脳の熱が引き、思考の解像度が上がる。


 だが、同時に、私ははっきりと理解していた。

 このアルクシオンという国において、「理由を考えない」という姿勢は、単なる怠慢や欠陥ではない。

 それは、至高の徳であり、生存のための必須能力であり、この停滞した王国への絶対的な忠誠の証なのだ。


 だからこそ、私はまだ、何も言わない。

 今日、私は一度も、物事の因果を口にしなかった。

 正解も、誤りも、証明も、そのすべてを自らの内に封じ込めた。

 

 それらを言葉にし、白日の下にさらすことが、この閉ざされた世界では最も野蛮で、かつ致命的な「攻撃」になると、もう十分に分かっているからだ。


 だが――。


 私は、橙色の魔導灯がぼんやりと照らす王宮の廊下を歩きながら、脳内の黒板に一本の鋭い、断裂した線を引いた。

 誰にも見えない、だが確実にこの世界の構造を二分する、一本の境界線だ。


 理由を言葉にしない世界は、一見すると堅牢で、不変の安定を誇っているように見える。

 だが、たった一人の人間が、その「理由」を言語化した瞬間に、砂の城のように脆く崩れ去る脆弱な構造。

 

 それは、最初から、内部に巨大な破綻を抱え込んでいるということに他ならない。

 矛盾を無視することで成立しているシステムは、その矛盾そのものを、いつか自分を焼き尽くすエネルギー源として蓄積しているに等しいのだ。


 そのエネルギーが蓄積し、臨界点という名の不連続点を超えたとき、沈黙という名の防波堤は、何の役にも立たないだろう。


 今日、若い職員は察して動こうとして失敗した。

 昨日、あの女職員は察することを拒み、自らの意志で沈黙を止めた。

 どちらも、公的な場で裁かれることはなかった。

 だが、どちらも確実に、この世界の「外縁」へと押し出された。


 正解を知らないことは、この国では罪ではない。

 理由を聞かないことも、罪ではない。

 

 だが、この国で最も忌むべき、歴史的な禁忌があるとするならば。

 それは、「理由を語ることができる者が、そこに現れること」そのものだ。


 理由を言語化できる者が現れた瞬間、この沈黙の連鎖は、論理の必然として、必ず破断する。


 私はまだ、その劇薬のような役を引き受けない。

 拙速な異物は、ただのノイズとして除去される運命にある。

 異物として真に機能するためには、まず内部に入り込み、この歪んだ構造の隅々までを完璧に理解し、その腐敗の速度すらも数式化してからでなければならない。


 今日も、世界は円滑に回っている。

 それが、何よりの証拠だ。

 この世界が、理由を必要としないほどに――いや、理由という光を心底から恐れているという、動かぬ証拠なのだ。


 私は歩き続ける。

 深い沈黙の中に身を浸し、周囲の職員たちの呼吸に合わせ、その歩調をわざと彼らのリズムに同調させる。

 あたかも、私もまた「何も考えない、察するだけの一部」になったかのように装いながら。


 だが、私の瞳は、この沈黙を焼き切り、世界の嘘を暴くための「最初の座標」を、暗闇の中で執拗に探し続けている。


 次に誰かが、ほんの一言でも。

 この窒息しそうな静寂の中で、「なぜ?」と口にしたとき。


 その瞬間に、積み上げられた数年分の「察しろ」という名の欺瞞がどのように爆散し、何が壊れ、何が残るのか。


 数学者である私は、その崩壊の軌道すら、もう、計算し終えている。

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