第25話 鍋を火にかけていただけなのに、各国で信仰が成立していた件
朝、俺は黙々と失敗していた。
木箱の中で、白い芽が――なぜか紫に光っている。
「……なんでだよ」
もやしは白いだろ。常識的に。
紫はもう、もやしじゃない。もやしの気持ちを考えろ。
隣で、もやし二号が無表情で頷いた。
……いや、頷かれても困る。
「これ、食えるのか?」
もやし二号は、箱の前に置いた札を指差した。
《試作品:紫紋もやし(食用可/強壮注意)》
勝手に札を作るな。
「強壮注意って何だよ……」
俺は鼻で笑って、鍋に湯を沸かした。
とりあえず茹でる。
この世界、困ったら茹でるとだいたい解決する。
……そう思っていた。少なくとも、俺の周りでは。
⸻
その頃――王都サンクティア。
格式ある石畳の街は、今日も整っていた。
整っているのに、どこか妙だった。
神殿前の階段。
いつもなら早朝から列ができるはずの参拝者が、いない。
代わりに列ができているのは、裏通りの鍋だ。
「……ここで、合ってる?」
貴族の邸宅の陰で、若い騎士が小声で聞いた。
隣の同僚が深刻な顔で頷く。
「合ってる。ここが“白き芽の施し所”だ」
「施し所って……」
「祈りじゃなくて、茹でる方のだ」
言葉の意味が分からないまま、騎士は鍋に目をやった。
ぐつぐつ。
白い細長い何かが、湯の中で踊っている。
湯気の向こうで、老婆が言った。
「ひと束でいいかい。今日は民の分が優先だよ」
騎士は一瞬、迷ってから銀貨を差し出した。
「……俺、古傷が」
「祈りに行きな」
老婆はあっさり言い捨て、もやしを包んだ。
「……え?」
「行っても治らん。こっち食え」
騎士は受け取った。
その瞬間、背後から視線を感じた。
神官だった。
白いローブ、涼しい目。
「……あなた」
神官は優しく微笑んだ。
「その白い芽は、どこで?」
騎士は汗をかいた。
神官の笑顔が、祈りのそれではない。監査のそれだ。
「え、えっと、これは……」
老婆が割って入った。
「野菜だよ」
「未承認の?」
「野菜だよ」
老婆は一切ぶれなかった。
神官は眉を寄せ、さらに優しく言った。
「あなた方の魂を案じているのです」
老婆は鍋の蓋を閉めた。
「腹を案じてくれ」
神官の微笑みが、一瞬だけ固まった。
⸻
王都神殿・会議室。
司祭長は、額を押さえていた。
机の上には報告書の山。
・参拝者数:減少
・施療所利用:激減
・民の平均表情:満腹
・鍋の増加:異常
「……満腹は、罪か?」
誰かが言った。
空気が重くなった。
若い司祭が恐る恐る続ける。
「罪では……ありません。ただ、問題が……」
「問題?」
「民が、“必要な時に祈らない”のです」
司祭長は目を閉じた。
「祈る代わりに何をしている」
若い司祭は言いたくなさそうに言った。
「……茹でています」
沈黙。
司祭長は、深く息を吐いた。
「発酵の次は、茹でだと?」
「いえ、茹では異端では……」
「異端にするな。余計増える」
即答だった。
彼は学び始めていた。遅いが。
別の司祭が書類を差し出す。
「“もやし神”信仰、周辺領へ拡散中です。さらに……」
司祭長が顔を上げる。
「さらに?」
「国外へ」
「……国外?」
若い司祭は震える声で言った。
「交易商が、白い芽を“聖遺物”として持ち出しています」
司祭長の指が止まる。
「待て。聖遺物は神殿が発行するものだろう」
「彼ら曰く――」
若い司祭は、読み上げるしかなかった。
「“神殿が発行する聖遺物より効く”そうです」
その言葉が、会議室の空気を殺した。
司祭長は静かに立ち上がる。
「……官僚を呼べ」
「はい」
「あと、騎士団長もだ」
一拍。
「……そして、鍋を持ってこい」
若い司祭が目を見開く。
「司祭長……?」
「自分で確かめる」
彼は真顔だった。
神殿が神殿を守るために、茹でる。
世界が壊れ始めている音がした。
⸻
同じ頃、別の国。
砂漠沿いの交易国家――ラハ=シーム。
王宮の官僚室で、文官が乾いた声で読み上げていた。
「報告。白く細長い植物の流入により、下層街の病欠が三割減」
大臣が眉を寄せる。
「植物?」
「はい」
「毒ではないのか」
「食うと元気になるそうです」
「……兵器か?」
文官は淡々と首を振った。
「鍋です」
「鍋?」
「茹でます」
大臣が椅子からずり落ちそうになった。
「……何を言っている」
文官は、さらに淡々と追撃する。
「民が“祈りより先に湯を沸かせ”と言い始めています」
「ここは神殿国家ではない」
「ですが、信仰が生まれています」
「何を信仰している」
文官は一瞬だけ間を置いた。
「無職です」
大臣は頭を抱えた。
「なぜ無職を信仰する」
「名前が分からないため、“無職もやし神”と呼ばれています」
「……神なのか」
「本人は否定しています」
「なら違うだろ」
「否定するから信じられるそうです」
大臣はしばらく黙ってから、机を叩いた。
「意味が分からん!」
文官は平然と言った。
「意味が分からないものほど、民は欲しがります」
官僚地獄の扉が開いた音がした。
⸻
さらに別の国。
山岳王国――グラニス。
貴族会議は、いつも通り傲慢で、いつも通り浅かった。
「つまり、その白い芽を押さえればいい」
「民心を握れる」
「神殿より上に立てる」
結論が出るのが早すぎる。
翌日。
貴族の倉庫に“白い芽”が集められた。
夜。
倉庫の前に、民が立った。
怒号はない。
松明もない。
ただ、静かに、圧がある。
「返せ」
誰が言ったか分からない。
だが声は、全員の声になった。
貴族が叫ぶ。
「これは王国の管理下だ! 正当な徴収だ!」
民は一歩も動かない。
「返せ」
その場にいた護衛騎士が、気づいた。
――この空気は、戦争の前の空気ではない。
――飢えの前の空気だ。
飢えは、正当性を食い破る。
翌朝。
貴族は“元・貴族”になっていた。
倉庫は空。
邸宅も空。
そして民は、静かに鍋を火にかけていた。
「……暴動は?」
王国の役人が震える声で言う。
「ありません」
「反乱は?」
「ありません」
「じゃあ何が起きた」
役人は泣きそうな顔で答えた。
「……満腹です」
⸻
そして、世界の地図のあちこちで、同じ現象が起き始めた。
神殿の前の列が短くなり、
市場の鍋が増え、
医者が暇になり、
軍の病欠が減り、
貴族が“勘違いして消え”、
官僚が“理解できずに倒れる”。
誰も宣戦布告していない。
誰も剣を抜いていない。
ただ、白く細長い芽が増えている。
⸻
その頃、当の本人。
俺は紫に光るもやしを、箸で持ち上げていた。
「……これ、強壮注意って書いてあるけどさ」
もやし二号が無言で頷く。
「俺が書いたんじゃないからな?」
二号は頷く。
「勝手に頷くな」
俺は紫もやしを口に入れた。
……うまい。普通にうまい。
次の瞬間、身体が軽くなりすぎた。
「……あれ?」
足が地面を蹴ったら、思ったより跳んだ。
というか、跳びすぎた。
軽く屋根に手が届いた。
「強壮注意ってこういう意味かよ!!」
もやし二号が、なぜか誇らしげに頷く。
その時、遠くから荷馬車の音がした。
荷台には木箱。
箱には各国の封蝋。
さらにその上に、手紙の束。
「……また寄付か?」
俺は木箱を開けた。
中には銀貨、金貨、宝石、そして――鍋。
「なんで鍋まで送ってくるんだよ」
手紙を適当に一枚読む。
『偉大なる無職もやし神へ
我が国にて信仰が成立しました
つきましては教義を――』
「教義って何だよ!!」
次の手紙。
『白き芽の奇跡により、我が軍の腰痛が消えました
同盟を――』
「同盟って何だよ!!」
次の手紙。
『神殿と揉めております
助けてください
鍋が足りません』
「鍋の供給が外交問題になるな!!」
俺は頭を抱えた。
「……俺、ただの無職だぞ?」
もやし二号が静かに、いつもの札を出した。
《無職:察してください》
その札が、やけに重く見えた。
遠くの世界で何が起きているか、俺は知らない。
だが一つだけ、確信している。
――俺が知らないところで、話が勝手に進んでいる。
そしてたぶん、次も進む。
俺が鍋を火にかける限り。
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