EP.3:無垢なる檻
背後で、ローエングリンが猛り狂った。
鞘を震わせ、神経を逆撫でするような剥き出しの「飢餓」を脳内に直接叩きつけてくる。
――抜け、と。
言葉にならない衝動が、脳裏を叩いた。
アスターは奥歯が砕けるほどに歯を食いしばり、その衝動を捻じ伏せる。
今抜けば、この集落が刻んできた歴史も、人々の営みも、すべては、その存在理由を剥奪され、空虚な残骸へと成り果てる。
誰が誰の何であったのか、何を愛し、何を思っていたのか。
その『意味』のすべてが理から切り離され、世界にはただ、名を持たぬ肉の塊だけが取り残されるのだ。
だから。
「……まだ」
肺の底から絞り出すような、掠れた呟き。
彼女は剣に手をかけながらも、その刃を晒すことはなかった。
救えない命を、なかったことにして終わらせる。そんな傲慢さを、彼女は選ばない。
彼女はただ、自身の無力さが招いた「終わりの光景」を、血を流すような瞳で一心に見届けていた。
せめて、自らの記憶という名の墓標に、その最期を刻みつけるために。
祠の足元で爆ぜた亀裂は、もはや単なる大地の損壊ではなかった。
それは世界そのものに刻まれた「意志を持つ傷」のように、脈動しながら、着実にその支配域を広げていく。
崩れ落ちたはずの石材は、重力の鎖を振りほどいて虚空へと浮かび上がり、目に見えない不文律に従ってゆっくりと旋回を始めた。
女の身体は、深淵へと沈んだのではない。
彼女は、狂った守護の法によって「あるべき位置」へと定義し直されたのだ。
祠の中心。宙に浮く瓦礫の檻の中で、彼女の四肢は目に見えない楔で縫い留められたかのように、一点に固定されていた。
「……あ……」
漏れ出たのは、この世の終わりのような光景には不釣り合いな、柔らかな吐息。
恐怖も、痛みも、そこにはない。ただ、渇望し続けた神の温もりに触れたかのような、陶酔に近い安堵。
祈りが、届いた。
その致命的な誤認が、彼女の喉を「救い」の形に震わせていた。
空気が、どろりと粘りつく。
肺腑を圧迫する湿った重圧が集落全体を覆い、呼吸は一拍ごとに重く、遅延していく。
地面の裂け目。そこから、名状しがたい何かが「形」という呪縛を自らに課そうとしていた。
それは当初、境界を持たぬ混沌に過ぎなかった。
砕け散った瓦礫、湿った土、祠であった石材、そして――人々の喉から溢れた祈りの残響。
本来ならば決して交わらぬはずの物質と概念が、理を無視して醜く、しかし強固に結合していく。
――まも、……れ。
大地の奥底からせり上がるような、低く掠れた音が響き渡る。
それは鼓膜を震わせる「声」ではない。
世界のひび割れから漏れ出した、純粋で、それゆえに救いようのない「意志」の咆哮だった。
――守れ。
――守らなければならない。
その強迫観念じみた響きに、アスターは一歩だけ後退した。
逃げるためではない。これ以上近づけば、自分自身もまた、その「歪んだ救済」の因果に囚われてしまうと直感したからだ。
あれは、討つべき敵ではない。
だが、慈しむべき人でも、敬うべき神でもない。
目的を喪失し、ただ「役目」という名の慣性だけで動き続ける、無機質な残骸だ。
祈り続けていた女の背に、どろりとした影が落ちる。
否。それは光を遮る現象ではない。彼女を慈しみ、覆い、そして永遠に固定するための「守護」そのものだった。
守るために、逃走を禁じる。
生かすために、変化を奪う。
あらゆる危険から遠ざけるために、観測可能な世界から彼女を切り離す。
――それは、未来を歩む命にとっての、完璧な破滅だ。
「……っ」
喉の奥で、苦い呻きが漏れた。
悟りたくなどなかった。だが、アスターの研ぎ澄まされた感覚は、残酷な正解を導き出してしまう。
どのような言葉を投げかけても。どのような奇跡を願っても。
あの女は、この歪みきった世界の理において、もはや「救われて」しまったのだ。
苦痛も、老いも、明日という不安さえも届かない場所。
神の残骸が定義する「永遠の安息」という名の檻の中へ。
人間の意志が介在する余地など、そこには一欠片も残されていない。
――意思を持つ者にとって、これ以上の侮辱があるだろうか。
背中で、ローエングリンが歓喜に近い震動を上げた。
鞘が激しく打ち鳴らされ、神経を灼くような飢餓感がアスターの右腕へと伝播する。
――喰らえる、と。
――今こそ、この醜悪な幸福ごと、その存在を歴史から抹消してやれる、と。
剣は、獲物が「完成」したことを知っていた。
だが――
アスターは、柄を握るその指先に血が滲むほど力を込め、剣を抜くことを拒絶した。
代わりに、彼女は肺にあるすべての空気を吐き出すように、集落の外へ向かって裂帛の叫びを叩きつけた。
「走れ……ッ!!」
それは、慈悲を削ぎ落とした純粋な命令だった。
祈ることを許さず、ただ生存のための逃走のみを強いる、峻烈な声。
「振り返るな!誰の声も、何の音も聞く必要はない!立ち止まることは、死を招くことだと刻み込め!!」
逃げ惑う人々の背を追うことはせず、彼女はその場に、楔を打ち込んだように留まる。
「守れ」と呪詛を吐き続ける“神のなれの果て”と。
「救いなどない」と知りながら、それでも一秒の生を繋ごうとする自分自身。
二つの破滅がせめぎ合う、その最も危うい境界線に立ち塞がるために。
集落の境界を越え、ようやく男はよろめきながら足を止めた。
激しい鼓動が耳の奥で響き、冷たい朝の空気が焼けるような肺を容赦なく刺してくる。
「……は、はぁ……っ」
振り返るな。決して、止まるな。
アスターという少女が放った、あの奇妙な重みを持つ声が、離れた今もなお彼の思考を縛り付けていた。
従わなければならない。それだけは、理屈ではなく魂が理解していたはずだった。
だが、人は、あまりに巨大な絶望を前にすると、自らの目でその正体を確認せずにはいられない生き物だ。
逃げてきた背後から漂う、甘く冷たい沈黙。
男は、ほんの一瞬だけ、禁忌を破って首を動かしてしまった。
集落は、もはや風景としての体をなしていなかった。
存在が否定されたわけではない。ただ、そこにあるべき歴史の密度が消失している。
家々は形を失って摩滅し、景色からは一切の艶が奪われていた。長い、あまりに長い時間という名の暴力に晒され、世界がひび割れ、薄く「摩耗」しているのだ。
その静止した中心に、目を逸らすことのできない「一点」がある。
瓦礫と土塊、そして祠であった石材。それらが意思を持つ泥のように結合し、一つの核を成している。
その中心部に――彼女の姿があった。
「……、……」
声は空気に溶ける前に死んだ。
あの女だ。祈れば届くと、救われると信じていた女。
彼女は今、何よりも深く「救われて」いた。
慈しまれるように包まれ、 永遠という名の監獄に守られ、 そして――彼女を知る全ての人間から、完全に、絶対的に、隔てられていた。
彼女は、あまりに安らかな顔をしていた。
苦痛も、恐怖も、この世のしがらみのすべてから解放されたような慈愛に満ちた微笑。それが、何よりも、どんな怪物の咆哮よりも恐ろしかった。
地表が、獣の空腹のような低い唸りを上げる。
震える大気が鼓膜を叩き、鋭い耳鳴りが思考を白く塗り潰していく。
男は喉の奥からせり上がる絶叫を――いや、縋るような神への嘆願を叫びかけ、その刹那、あの少女の声を思い出した。
祈るな。
振り返るな。
立ち止まるな。
逃げろと命じた、あの凍てつくような峻烈な響き。
男は、震える唇を血が滲むほどに噛み締めた。
祈りという名の甘美な毒に屈しそうになる心を、剥き出しの呪詛で塗りつぶす。
「……っ、くそ……」
彼は逃れられぬ磁力のように引き寄せられていた視線を強引に断ち切り、再び、泥を蹴って走り出した。
背後で、大気を揺らす「何か」が動き出す気配がした。
だが、彼は決して確かめようとはしなかった。
視界の端に映すこと、存在を認識すること。それはすでに「救い」を求める関わりであり、理を歪める引き金になると本能が理解していたからだ。
彼は知る由もない。
絶望の渦中にたった独り踏み止まったあの少女が、今、どんな決意を瞳に宿し、その異形の剣を握り締めているのかを。
彼が目撃した地獄の惨状も、救われた女の微笑みも。……アスターが刃を抜けば、それらはすべて色彩を失った記号へと成り下がる。
記憶の中には残るだろう。けれど、その光景が何を意味していたのか、なぜ自分がこれほどまでに震えていたのか。その核心にある『痛み』そのものが、永遠に失われてしまうのだ。
少女の表情も、放たれる一撃の行方も、逃げゆく彼の背には届かない。
ただ一つ、覆しようのない事実が、後にこの世界の冷酷な教訓として語り継がれることになる。
――あの日、祈らなかった者だけが、生き延びた。
祈りが死を招く世界で、少女は救いを断つ刃を背負う 彩月鳴 @Lavit
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