EP.2:祈りの残響
空が白み始めるころ、丘の向こうから昇る朝靄が、地表を低く這っていた。
そこに昨夜の戦いの痕跡はない。
焦げた匂いも、流された血の跡も、大地を無残に引き裂いた爪痕すら。
跡形もなく消滅した「神」の残滓と共に、戦いの記憶さえ大地から削り取られたような、不自然なほどに無垢な空白。
アスターは丘の麓で足を止め、背中の「重み」を改めて確かめる。
ローエングリンは、今はただ沈黙を守っていた。
喰らうべきものをその刃に喰らい、満ち足りた捕食者のように、静かに眠りに就いている。
(……また、ひとつ)
何を対価として支払ったのか、彼女は決して意識に上げない。
欠落を正しく認識してしまえば、積み重なった「喪失の数」に、心が耐えきれなくなることを知っているからだ。
その「何か」を埋めるように、外套の襟を深く引き寄せ、アスターは重い足取りで歩き出した。
遥か遠方、白み始めた空へと細い煙がたゆたっている。火の気がある。
そこにはまだ、明日を繋ごうとする人々の確かな息吹があった。
丘を下りきった先に広がっていたのは、慎ましすぎるほどの集落だった。
腐朽した木柵が頼りなく囲い、幾度も修繕の跡が刻まれた土壁の家々が身を寄せ合っている。その広場の中央には、風雨にさらされ、ひび割れた粗末な石の祠が鎮座していた。
人々はその傍らを通り過ぎるたび、呼吸をするのと同じ自然さで指を組み、音のない言葉を唇にのせる。
――祈り。
それが死を招く呼び鈴であることを知らぬ人々の無垢な所作に、アスターは耐えかねたように視線を逸らした。
集落の入り口、頼りない木柵の影から槍を携えた男が歩み寄り、彼女を呼び止めた。
「旅の方か? 見かけない顔だが」
「……通るだけ。すぐに去る」
感情を削ぎ落とした短すぎる返答。男の視線は、彼女の言葉よりもその背後に釘付けになっていた。
小柄な彼女の身の丈を越える、歪で長大な鞘。装飾を拒んだその塊は、平和な朝の光の中で、そこだけが切り取られた影のように異彩を放っている。
「その剣……いや。差し支えなければ、名を聞かせてもらえるか」
男の声に、無意識の畏怖が混じる。アスターは、一瞬だけ視線を落とした。
かつて、愛おしげに名を呼ばれ、それに応えることが幸福だった時代。そんな色彩豊かな過去は、今の彼女にとっては砂漠の楼閣に等しい。
「……アスター。今は、そう名乗ってる」
自らの名ですら、借り物のように不確かな響きを伴って、彼女の唇を滑り落ちた。
男はなおも不審げに眉を寄せたが、彼女の横を通り抜ける際に感じた、凍てつくような孤独感に気圧され、それ以上言葉を重ねることはできなかった。
人々の生活の気配は、確かにそこにある。薪を割る音、朝餉の支度をする匂い。
だが、その穏やかな表層のすぐ奥に、薄氷のような冷たい「歪み」が混じり始めていた。
それはまだ、産声を上げたばかりの小さな亀裂に過ぎない。
けれど、人々の無垢な願望が、行き場のない切実な祈りが、その底へ着実に溜まり始めているのをアスターの肌は敏感に察知していた。
(……やっぱりここでも祈りが。……止める……のは、無理だろうな)
背中のローエングリンは、今はまだ深海のような沈黙を保っている。
その沈黙が少しでも長く、願わくば永遠に続くことを、彼女は誰よりも――自らの存在理由を否定してでも――切に願っていた。
集落の中央。ひび割れた石の祠の前で、一人の女が縋るように膝をついていた。
年の頃は三十に満たないだろうか。白くなるほど指を強く組み、何かを必死に押し殺すように、ひび割れた石の肌に額を擦りつけている。その震える肩からは、もはや言葉にならない切実な喘ぎが漏れていた。
アスターは、その痛ましい背中を一瞥し、重い足取りを止めた。
「……やめた方がいい」
独り言のような、あるいは風に溶けて消えそうなほど静かな声だった。
女はびくりと弾かれたように肩を震わせ、ゆっくりと振り返る。
涙に濡れたその瞳には、突如現れた異邦人への怯えと、泥に沈む者が差し伸べられた糸を見るような、危うい光が混じり合っていた。
「旅の人……?」
「祈っても、助からない」
それは断罪に近い一言だった。
慰めようとする慈悲も、行動を促す忠告もない。ただ、目の前の壁に映る影を「影だ」と指摘するような、あまりに平坦で無機質な事実の提示。
女は一瞬、言葉を失ったように、蒼白な唇を小刻みに震わせた。やがて、その震えは歪な弧を描き、力ない笑いへと変わる。
「……それでも、祈らないといけないんです」
「そうしていなければ、もう……何もできない。何に耐えればいいのかさえ、分からなくなってしまうから」
アスターは視線を外した。
否定は反発を呼び、反発は執着を生む。そして執着は、最も濃密な「祈り」となって大気を歪ませる。
何も言わないことが、今のアスターにできる唯一の、そして最も残酷な優しさだった。
女は盲目的に祠へ縋り、震える呼気と共に祈りの言葉を紡ぎ出す。
その呼び声に応えるかのように、変異は訪れた。
祠の背後、地の底から這い上がってくるような低い軋み。
音ですらなく、ただ世界の整合性が失われていくような気配。大気が歪み、先ほどまでの穏やかな朝が、一瞬にして鉛色に濁った錯覚を覚える。
アスターの足元。乾いた砂利が、不可視の衝撃に耐えかねたように地面を打つ。
(……早い)
背負ったローエングリンが、眠りの中にあるまま、ほんの僅かに、だが確かに脈打つ。
抜けばすべてを無に帰してしまう。抜くには、まだ早すぎる。
だが、目の前で産声を上げようとしている「救いようのない何か」を前に、静観を許される時間は、とうに尽きていた。
女の祈りは、加速し続ける。
縋るようなその背中は、今やこの場に溜まった「歪み」を吸い上げるための導火線に過ぎない。止めようと手を伸ばせば、その瞬間に爆発的な破滅を招くだけだ。
アスターは静かに踵を返し、集落の平穏を突き破るように現れた「兆し」に狙いを定めた。
地面が、生き物のように僅かに波打っている。
そこを起点として、世界の色彩が剥げ落ち、無機質な灰色のひび割れが四方に走り出していた。
(……思ってたより……ずっと)
悔恨はない。加速する崩壊を冷徹に観測した結果としての、淡々とした事実の受理。
彼女が背中で感じているのは、目覚めを促されたローエングリンの、狂おしいほどの飢餓感だった。
アスターは躊躇を捨て、迷いのない足取りで歩き出した。
向かうのは、崩壊の起点たる祠でも、変異が始まった歪みの中心でもない。彼女はただ、集落の出口を見据え、一直線に地を蹴った。
「――皆、聞いて」
張り上げた声ではない。けれどその響きには、大気を直接震わせるような奇妙な質量が宿っていた。穏やかな朝のざわめきの中に、鋭いナイフを突き立てたような不協和音が広がる。
薪を割る鈍い音が止まる。
井戸端で談笑していた女たちが、凍りついたように顔を上げる。
理由も分からぬ不安に駆られた子供が、母親の袖をちぎれんばかりに掴んだ。
「ここから離れて。今すぐ、何も持たずに」
理由は告げない。
恐怖に理由を与えれば、人は神に縋る。言葉を尽くせば、誰かが救いを求めて祈りだす。そしてその祈りが、この場所の「終わり」をさらに加速させることを、彼女は嫌というほど知っていた。
「この集落を、私たちの居場所を捨てろって言うのか!」
誰かが怒号を浴びせた。それは、奪われることへの根源的な恐怖が、怒りに形を変えて噴出したものだった。
アスターはただ冷徹に、しかし重く首を横に振る。
「捨てるんじゃない。命を繋ぐために、ここを離れるだけ」
言葉を打ち消すように、足元の地表が――激しく、底から突き上げるように揺れた。
家々の土壁が悲鳴を上げて軋み、干された布が一斉に、見えない何かに怯えるように乱れ踊る。
ざわめきは瞬時に、耳を刺す悲鳴へと塗り替えられた。
「な、何だ……この揺れは!? 何が起きてる!」
「神よ、お守りください……神よ……っ!」
その名を呼ぶ声が響いた瞬間、アスターの心臓が激しく跳ねた。
「祈るな!」
鼓膜を震わせる、烈火のような怒号。
感情を削ぎ落としていたはずの彼女が、初めて喉を裂くような悲鳴に近い声を荒らげた。
祈りは火種。そして、恐怖に濡れた祈りは、理を歪ませる最悪の触媒だ。
混乱に陥った人々は、思考を停止させ、ただ立ち尽くす。
その中で、誰かが泣き、誰かが叫び、誰かが――祠の方を振り返る。
膝をついていた、あの女だ。
彼女はまだ、逃げることさえ忘れてそこにいた。
裂けた石に額を押し付け、今度は喉の奥から声を絞り出すように、呪詛にも似た切実さで何かを唱え続けている。
「……お願い、お願いです……どうか、助けて……」
空気がじっとりと変質し、彼女を中心にして「歪み」の密度が増していく。
見えないはずのものが、アスターの視界でははっきりと“溜まっていく”のが見えた。
「……やめろ」
その掠れた言葉が届かぬことも、止める術がないことも分かっていた。
それでも、アスターの唇からは拒絶の呟きが漏れ出していた。
アスターは、群れる人々の背を追い立てるように出口へ促しながら、幾度も背後を振り返る。
幼い子供、足縺れを起こす老人、震えが止まらぬ負傷者――。生きたいと願う足並みは、決して揃うことはない。
そして、その「揃わない」という物理的な事実こそが、この場の結末を冷酷に決定づける。
祠の足元。
乾いた大地が、内側から膨れ上がった不可視の質量に耐えかね、轟音と共に裂開した。
女の声が、不自然に途絶える。
悲鳴すら喉の奥に押し戻されるような、圧倒的な暴力。
アスターは、その場に釘を打たれたように足を止めた。
(……もう、間に合わない)
諦観ではない。それは、冷徹なまでの確信。
全員を掬い上げようと掌を広げれば、指の間からすべての命が零れ落ちる。
救済という名の甘い幻想を抱くには、今の世界はあまりに壊れすぎていた。
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