EP.1:かつて神だったもの

――その悲鳴が、祈りに変わる前に。


アスターの足が止まる。

崩れ落ちた街道の、静寂の奥。瓦礫と倒木の影に潜むのは、微かな、しかし切実な人の気配だった。

助けを呼ぶ言葉すら形を成さず、ただ掠れた呼気だけがそこにある。


(まだ、届くところにいる)


短く呼気を整え、彼女は地を這うように駆けた。

外套から覗く淡い銀青色の髪が、薄暗い景色のなかで幽かに光を弾く。


壊れた荷車の残骸。その下で脚を挟まれ、力なく横たわる若者の姿。

周囲には生々しい血の匂いが立ち込めているが、それ以上にアスターの肌を刺したのは、この世の道理を無視したような、凍てつく異質な空気の感触だった。


「動かないで」


わずかな吐息と共に放たれた言葉に、男は言葉を失う。

救助者の正体が自分よりもずっと年若い少女であることへの驚きか、あるいは、彼女が背負う「武器」と呼ぶにはあまりに歪で長大な鞘への恐怖か。


アスターは気づかないふりをして、手際よく瓦礫を排除し始めた。

力仕事には慣れている。というより、重力という概念を置き去りにしたようなその所作には、迷いの一片すら混じらない。


(――来る)


彼女の思考が、警戒の色に染まる。

呼応するように、背中の「ローエングリン」が微かな鳴動を上げた。

鞘の重みが増していく。それはまるで、これから訪れる「何か」を喰らうために、この剣が目を覚まそうとしているかのようだった。



祈りの匂いだ。

それは救いのような芳香ではなく、死に直面した者が放つ、脂汗と恐怖に塗れた濁った臭気。


「立てる?」


「……あ、ああ。なんとか」


「なら、今すぐ走って。何があっても、絶対に振り返らないで」


「でも、あんたはどうするんだ、そんな大きな剣を――」


「いいから、早く!」


わずかに声を荒らげ、彼の懸念を撥ねつける。

その瞬間、遠くの地平が、地底から響くような音を立てて軋んだ。何かが、深淵の眠りから覚醒しようとしている。

ここで「ローエングリン」を抜けば、間違いなく終わる。それが敵なのか、自分なのか――彼女には分かっていた。


アスターは男の背を力強く押し、出口の見えない街道の先を指さした。


「生きたいなら、神に縋らないで。心の中でも、決して祈らないで」


意味が分からないと困惑に顔を歪ませながらも、男は必死の形相で駆け出した。

遠ざかる背中を瞳に焼き付け、彼女は深く、熱を逃がすように息を吐いた。



瓦礫の山が内側から震え、何かが低く、湿った音を立てて呻く。


それはもはや言葉の体をなさない、ただの震動に過ぎなかった。

それでも、アスターの鼓膜には、掠れ、ひび割れた声が確かにこう囁いたのが聞こえた。


――まも、……れ。


その声に、アスターは応じなかった。剣の柄に指をかけることさえしなかった。


彼女はただ、暴れようとするローエングリンを宥めるように、鞘越しにその長大な身を強く、折れそうなほど抱きしめた。

背後で響き続ける「守護」という名の呪詛。

それを背中で冷徹に聞き流しながら、彼女は一度も振り返ることなく、暗がりの向こうへ踵を返した。


(まだだ。まだその時じゃない)


彼女はそう自分に言い聞かせるように、一時の静寂を求めて地を蹴った。




荒れた街道を離れ、風が草をなでるだけの寂寥とした丘へ辿り着いて、アスターはひとつ、深く息を吐いた。

しかし、背中のローエングリンは沈黙を守ったまま、ずっしりとその存在感を主張し続けている。

先ほどよりも、確かな殺意にも似た重力を伴って。


(……追いついてくる。思ってたよりも早い)


『それ』が何であるか、定義する気はなかった。

名前を与え、分類してしまえば、目の前の真実を「記号」としてしか見られなくなる。

それは、理を外れた強大な力に対する、彼女なりの防衛本能でもあった。

彼女はただ、重みを増し続ける鞘の感触を、言葉を介さぬ警告として背中で聞き続けていた。



それでも、理解している事実がいくつかある。


あれは、神であったものから零れ落ちた、意志と呼ぶにはあまりに歪んだ残骸だ。

崇高な神格はとうに摩耗し、そこにはもう、慈悲と呼べるものは一欠片も残っていない。


かつては人々の祈りに応え、その歩みを導く灯火であったはずの存在。

だが、内側が壊れ、空虚な「役目」という名の残滓だけが、意志を置き去りにして彷徨い続けているのだ。


救いを求める切実な声に引き寄せられ、恐怖に震える願いをその身に喰らい――そして、無残な形に歪んだ「守護」を完遂しようとする。


なんという皮肉だろう。

誰よりも「守る」ことに執着するそれが、今やこの世界で最も効率的に、最も多くの命を奪い去る死神へと成り果てているのだから。



だから、祈ってはならない。

救いを求めて、神の名を口にしてはならない。



生き延びるために許された唯一の道は、震える膝を叩いてでも自らの足で泥を蹴り、逃げ続けること。

それが、死に絶えたこの世界における、新たな生存の鉄則だった。


丘の向こうで、地を這うような低い唸りが大地を震わせた。

大気が不自然に捻じれ、吹き抜けていた風が本来あるべき方向を忘れたかのように、狂おしく逆流を始める。

背中の「ローエングリン」が、先ほどよりも激しく、警鐘を鳴らすように明確に震えた。


(――来たか)


刹那、先ほどの男の姿が意識の端をかすめる。

彼は「走れ」という言葉を守り、祈りの甘美な誘惑を撥ねつけられただろうか。

もしそうでなければ。彼が救いを求めて天を仰いでしまったなら。

あの男の「生存」は、その瞬間に終わりを迎えたことになる。



逃げることは、もう叶わない。アスターは静かに、地を蹴る足の向きを変えた。


ひとたび奴が覚醒すれば、誰かの心に「祈り」という火が灯るたび、その光を目がけて闇はどこまでも這い寄ってくる。


ローエングリンという名の楔を抜かずに、この悲劇を断ち切る方法は存在しない。

だが、それでも――彼女は躊躇っていた。その瞬間に訪れる「終わり」の重さに、心が軋んでいた。


鞘越しに伝わる震動を宥めるように手を添えると、ローエングリンは、ほんの一瞬だけ静かになった。

彼女は静かに、一度きりの呼吸を整える。


次にその足を止める時。

それはきっと、自らの手でこの悪夢を「終わらせる」と、魂に刻みつけた瞬間だ。



丘の稜線をなぞるようにして、ついに「それ」が姿を現した。

崩落した断崖と大地を、無理やり縫い合わせたかのような歪な巨躯。

数多の祈りと、澱んだ恐怖、そして果たされることのなかった「守護」の執念だけで編み上げられた、神の無残な残骸。


――まも、……れ……。


大気を震わせ、ひび割れた声が、呪詛のように、あるいは縋るような囁きとなってアスターの耳を打つ。

その瞬間、彼女の中で張り詰めていた糸が、静かに、音もなく千切れた。


「……もう、十分だよ」


その声に、怒りや憎しみの色はなかった。

それは、永劫の苦痛をさまよう迷子を見つけたような、あるいは、すべてを諦め、終わりを受け入れた者だけが口にできる、凪のように淡い独白だった。



彼女の手の中で、ローエングリンの柄が冷たく呼応する。

鞘が断末魔のような軋みを上げ――直後、すべてを拒絶するような真空の静寂が、その場を支配した。


抜けば、結末が訪れる。

執着という名の祈りも、守護の呪いに縛られた神も。そして、「二度と戻らない何か」も。


それでも、彼女は大地を強く踏みしめる。


――閃光。

物理的な音を一切置き去りにして、ただ夜の闇を裂くように、その刃は解き放たれた。

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