第4話 湖の噂

 夕方のニュースは、たいてい音だけが流れている。


 カフェ三狐の壁際に置かれた小さなテレビも、その例に漏れなかった。画面ではアナウンサーが何かを読み上げているが、客のいない店内では、内容まで意識する者はいない。


 少なくとも、いつもなら。


「……三狐の森周辺で、野生動物の異常行動が確認されています」


 その一文に、ヤコの耳がぴくりと跳ねた。


 カウンターを拭いていた手が止まり、巫女服の袖がわずかに揺れる。ヤコは音のする方を振り返り、テレビを見つめた。


 画面には、森の入り口付近の映像が映っている。立ち入り禁止のテープ。警告看板。遠巻きに集まる人影。


「狐が人を恐れず、近づいてくるという報告もあり——」


 その先は、ヤコの耳に届いていなかった。


 三狐の森。


 ヤコが生まれ、駆け回り、季節を知った場所。


 まだ名もなく、まだ人の言葉を持たなかった頃、あの森は世界のすべてだった。


「……そんなはずは、ないのじゃ」


 呟きは、誰に聞かせるでもなく零れた。


 森の狐たちは、慎ましく生きていた。人の気配を察すれば距離を取り、湖に近づくのも必要なときだけだった。無闇に人へ近づくなど、ありえない。


 ——少なくとも、ヤコが知っている限りでは。


 奥の席で資料を広げていた祐介が、テレビの音に気づいて顔を上げた。


「ニュース?」


「……森の話をしておる」


 ヤコは視線を画面に向けたまま答えた。


 祐介はゆっくりと立ち上がり、ヤコの隣へ来る。テレビの前で足を止め、画面を見た。


 三狐の森。

 三狐の湖。


 忘れたことはない。


 夜の湿った空気。懐中電灯の円。水面に揺れる光。その縁で、こちらを見返してきた琥珀色の瞳。


 そして——。


 罠にかかった、小さな体。


 祐介は無意識に拳を握りしめていた。


「……噂の段階だな」


 研究者としての声だった。


「映像も曖昧だし、原因は何も分かっていない」


「しかし……」


 ヤコは、胸の前で手を重ねた。


「妾の森なのじゃ。あの場所で何かが起きておるのなら、胸が……」


 言葉が途切れる。


 悲しい、というより、もっと重い感情だった。守れなかったものを思い出すような、鈍い痛み。


 祐介は、その横顔を見た。


 彼は知っている。


 ヤコがどんな場所で生きていたか。

 どんな匂いの中で、どんな音を聞いていたか。


 そして、自分がそこから彼女を“連れ出した”ことも。


「……ヤコ」


「なんじゃ?」


「森は、もう君だけの場所じゃない」


 言いながら、祐介は自分の言葉に少しだけ顔を歪めた。


 正しい。だが、優しくはない。


「人が入る。噂も広がる。良くも悪くも、昔のままじゃいられない」


 ヤコは俯いた。


 尻尾が、床に触れるほど垂れ下がっている。


「……妾は、逃げたのじゃろうか」


 その言葉は、祐介の胸を強く打った。


「捕まって、人になって、町で暮らして……森で起きておることから、目を背けておるだけなのでは、と」


「違う」


 祐介は、即座に否定した。


 思ったよりも強い声が出て、自分でも驚く。


「君は逃げたんじゃない。選んだんだ」


 ヤコは顔を上げる。


「……選んだ?」


「生き方を。人として、この町で生きることを」


 それは、祐介自身に言い聞かせる言葉でもあった。


 ヤコを捕獲した夜、彼は“研究対象”として彼女を連れ帰った。だが、その後の三年間で、彼女は自分の意志でここに立っている。


 それを、なかったことにはできない。


「森で起きていることは、俺も調べる」


 祐介はそう言って、テレビの電源を切った。


 画面が暗くなり、店内に静けさが戻る。


「ヤコが悲しむなら、放ってはおけない」


 ヤコは、しばらく黙っていた。


 やがて、小さく息を吐く。


「……祐介は、優しいのう」


「優しくはないよ」


 祐介は苦笑した。


「ただ、知ってるだけだ」


 森の匂いを。

 湖の冷たさを。

 そして、あの夜、震えていた命の重さを。


 ヤコは、ゆっくりと頷いた。


 耳が、少しだけ元の位置へ戻る。


「ならば……妾は、ここで待つのじゃ」


「待つ?」


「うむ。祐介が見るもの、知るものを、妾は信じる」


 それは、森を離れた狐なりの、覚悟だった。


 店の外で、風がアーケードを抜けていく音がした。


 その風は、湖の方角から来ている。


 誰もまだ知らない。


 あの水面の下で、何が静かに溶け出しているのかを。


 けれど、噂はもう、町の端に触れ始めていた。


 日常の縁を、音もなく濡らしながら。


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狐の耳が残る街で 狐日和 @yako_Project

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