第3話 触れるということ
放課後の三狐町は、昼とも夜ともつかない時間を漂っている。
学校帰りの学生が通り過ぎることもあるが、足を止める者は少ない。シャッターの降りた店先を横目に、商店街は静かに夕方へ向かっていた。
カフェ三狐の中だけが、少し違う。
ドアの鈴が鳴り、制服姿の少女が顔を覗かせた。
「こんにちは……」
控えめな声だった。
「いらっしゃいませ、なのじゃ」
カウンターの内側から、ヤコがにこりと笑う。巫女服の袖を揃え、いつもと同じように背筋を伸ばしている。
「いつもの席、空いてるよ」
奥から夏樹が声をかけると、少女はほっとしたように頷いた。
山口ミユ。
この店の常連で、放課後になると決まって顔を出す高校一年生だ。
ミユは席に鞄を置くと、少しだけ落ち着かない様子でカウンターを見つめた。それに気づいたヤコが、首を傾げる。
「どうしたのじゃ、ミユ。今日は元気がないのう?」
「いえ……元気です。ただ……」
ミユは言葉を探すように視線を泳がせ、それから小さく息を吸った。
「今日も、いいですか?」
ヤコは一瞬だけ瞬きをしたあと、すぐに頷いた。
「うむ。構わぬのじゃ」
その返事を聞くと、ミユの表情がぱっと明るくなる。椅子から立ち上がり、そっとカウンターへ近づいた。
そして、慎重に手を伸ばす。
ヤコの頭頂部にある赤褐色の耳に、指先が触れる。
「……あったかい」
ミユは、いつもそう言う。
ヤコはくすぐったそうに目を細めた。
「触るたびに申すのう。妾の耳は、逃げも隠れもせぬぞ」
「だって、本当に……生きてる感じがして」
耳は、指が触れると小さく揺れた。嫌がる様子はない。むしろ、ヤコの尻尾がゆっくりと左右に動き始める。
その様子を、夏樹はカウンターの向こうから静かに見ていた。何も言わない。止めることもしない。
この店では、もう“いつもの光景”だった。
ミユは耳に触れ終えると、今度は少しだけ腰を屈め、尻尾の先に指を添えた。
「……今日も、ちゃんとある」
小さく呟く。
「なくなったら、怖いから」
ヤコは一瞬だけ言葉を失い、それから、いつもより少しだけ柔らかく笑った。
「あるに決まっておろう。妾は消えぬ」
その言葉に、ミユはようやく安心したように息を吐いた。
夏樹がココアを置く。
「はい。今日は冷えるから」
「ありがとうございます」
ミユは両手でカップを包み、湯気を見つめた。視線が上がり、今度は店の奥にいる人物を見つける。
「あ、祐介さん」
「おかえり」
研究室帰りの祐介が、いつの間にか席に座っていた。眼鏡を外し、指でこめかみを押さえている。
「今日は早いですね」
「データ整理が一区切りついたから」
祐介はそう言って、ミユに軽く手を振った。
ミユは、少し迷ってから口を開く。
「……あの。ヤコちゃんって、ずっとこの町にいるんですよね」
「そうじゃのう」
答えたのはヤコだった。
「妾は、ここが気に入っておる。静かで、人が優しい」
ミユは頷いた。
「わたしも、ここ好きです。学校の帰り道、ここに来ると……ちゃんと戻ってきたって感じがして」
その言葉に、祐介は一瞬だけ目を伏せた。
戻ってくる場所。
それは、この町が今もかろうじて持っているものだった。
「ねえ、ヤコちゃん」
「なんじゃ?」
「毎日、触っても……大丈夫ですか?」
真剣な問いだった。
ヤコは驚いたように目を見開き、それから優しく笑った。
「妾が嫌なら、断っておるのじゃ。ミユが触れるのは、嫌ではない」
「……よかった」
ミユは安堵したように呟いた。
祐介は、そのやり取りを静かに見ていた。研究室で見てきた数値では測れないものが、ここにはある。
触れること。
確かめること。
存在を信じること。
それらが、数字よりも確かな安定を生んでいる気がした。
ヤコがふと、耳をぴくりと動かす。
ドアの方を見たが、誰もいない。
「……どうした?」
祐介が尋ねると、ヤコは首を振った。
「いや……今、外の空気が少し動いたような気がしただけじゃ」
ミユはきょとんとした顔でドアを見る。
「風、ですか?」
「かもしれぬのう」
ヤコはそう言って、話題を戻すようにミユへ向き直った。
「ミユは、今日も学校は無事だったかえ」
「はい。テストも終わりましたし」
何でもない会話が、続いていく。
カップの中身が少しずつ減り、夕方の光が店内に差し込む。日常は、まだ壊れていない。
そのとき、店内のテレビが小さな音でニュースを流した。
遠くの森で、野生動物に異変が見られるという短い話題。
画面の隅に、三狐の森の名前が一瞬だけ映る。
誰も、それを自分たちのことだとは思わなかった。
けれど、ヤコの耳は、微かに硬くなっていた。
町の外れ。湖の方角から、言葉にならない何かが流れてくる。
それが何かを知る者は、まだいない。
ただ、触れた指先の温度だけが、確かにここにあった。
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