第2話 数字の並ぶ場所

 中京都大学の研究棟は、朝でも静かだった。


 コンクリートの壁に囲まれた廊下は、足音を吸い込むように無言で続いている。掲示板には古い研究発表のポスターが貼られたままで、端が少し剥がれていた。


 中村祐介は、研究室の鍵を開ける。


 小さな部屋だった。


 かつては三人分のデスクが並んでいたらしい痕跡がある。今は一つだけが残り、あとは空いたスペースに段ボール箱や古い機材が積まれている。白く塗られた壁には、過去の実験スケジュール表が消しきれずに残っていた。


 祐介は照明を点け、机に鞄を置いた。


 パソコンを起動し、ログインを済ませる。立ち上がるまでの数秒間、彼は椅子に深く腰を下ろし、息を整えた。


 ここでは、余計な音がしない。


 ヤコの耳が揺れる気配も、コーヒーの香りもない。ただ、ファンの低い回転音と、遠くの実験室からかすかに聞こえる金属音だけがある。


 祐介はフォルダを開いた。


 YAKO-01 生体記録。


 その文字列を見ただけで、胸の奥が少しだけ締めつけられる。


 画面には、数値とグラフが整然と並んでいた。心拍、体温、脳波の変化。行動パターンと感情反応の相関。人化後三年間の蓄積だ。


「……異常なし、か」


 独り言が、やけに大きく聞こえる。


 ヤコは安定している。少なくとも、数値上は。


 祐介はキーボードを叩き、最新のデータを追記した。今朝の観察記録を思い返しながら、簡潔な文章に落とし込む。


 ——接客時の表情、安定。

 ——聴覚反応、過敏化なし。

 ——情緒、軽度の揺らぎあり(要経過観察)。


 最後の一文に、祐介は一瞬だけ指を止めた。


 情緒の揺らぎ。


 数値では説明しきれないものが、確かにあった。ヤコの言葉。耳の動き。町の空気が変わった、という感覚。


 それを科学の言葉に落とし込むには、まだ材料が足りない。


 画面の隅に、未読のメール通知が点灯しているのに気づいた。件名を見ただけで、内容は察しがつく。


 研究予算に関するご連絡。


 祐介は深く息を吸い、クリックした。


 予想通りの文面だった。

 研究成果の評価。社会的有用性。今後の方針。

 丁寧な言葉で包まれた、「これ以上の継続は難しい」という結論。


 祐介は、モニターから目を離した。


 窓の外では、学生が数人、早足で通り過ぎていく。誰もこちらを見ない。見られる理由も、もうない。


「……わかってる」


 そう呟いてから、自分が誰に向かって言ったのか分からなくなった。


 ——と、その直後。


 もう一通、通知が点いた。


 差出人は、大学ではない。

 表示された名前は、中京都市。

 件名には、短くこうあった。


 【協力依頼】(非公開)


 祐介は、マウスに置いた指を止めた。


 YAKO-01は、奇跡だった。


 あの夜、湖の畔で見た存在を、科学で再現しようとした無謀。偶然と執念が重なり合って生まれた成果。評価されたのは、ほんの一時だけだ。


 今では「扱いにくい研究」の箱に入れられ、棚の奥へ押し込まれつつある。


 祐介は立ち上がり、部屋の奥に置かれた簡易ケージの前へ行った。中は空だ。使われなくなって久しい。


「君は、ちゃんと生きてるのに」


 誰にともなく、そう言った。


 ヤコは数字じゃない。グラフでもない。彼女は、笑って、働いて、悩んでいる。


 それを説明できないなら、科学の側が未熟なだけだ。


 祐介は机に戻り、新しいファイルを開いた。

 仮説メモ、とだけ書かれた白紙のページ。


 ——人化後の安定性は、単体の薬効では説明できない。

 ——環境要因、接触対象、心理的要素の関与。

 ——長期的な皮膚接触による微量成分の移行可能性。


 指が止まる。


 朝の光景が、頭をよぎった。

 カウンター越しのヤコ。

 日常の中に溶け込んだ存在。

 そして、その耳に、何のためらいもなく触れる少女の指先。


 祐介は首を振った。


「……まだだ」


 今は証拠がない。感覚で仮説を立てるのは、研究者として危険だ。


 だが、感覚を切り捨ててきた結果が、この部屋の広さなのだとも思う。


 机の端に置かれた小さな写真立てに、ふと目が留まった。そこには、研究室がまだ賑やかだった頃の集合写真がある。笑顔の自分と、もうここにいない仲間たち。


 祐介は写真を伏せた。


 代わりに、YAKO-01の分子構造図を画面いっぱいに表示する。複雑で、美しい曲線。


「……お前は、何をするために生まれたんだ」


 問いは、答えを返さない。


 けれど、この研究が終わるとは、祐介はまだ思っていなかった。


 町のどこかで、何かが動き始めている。理由は分からない。だが、ヤコの耳が感じ取った“違和感”を、無視する気にはなれなかった。


 祐介はファイルを保存し、椅子に深く座り直す。


 予算がなくても、評価されなくても。


 この研究室でできることは、まだある。


 ——数字の並ぶ場所で、祐介は一つだけ確信していた。


 ヤコが安定している理由は、薬だけではない。


 触れて、笑って、誰かの手が届く距離にいること。

 その“日常”こそが、彼女を生かしている。


 だからこそ、あの店に通う少女の存在が、胸の奥に引っかかって離れなかった。

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