狐の耳が残る街で
狐日和
第1話 三狐町の朝
三狐町の朝は、少し遅れてやって来る。
駅前の大通りを外れ、古いアーケードの入り口をくぐると、空気が一段と静かになる。人の声は途切れがちで、足音がやけに反響する。開けっぱなしの空きテナントには、薄い埃の匂いが溜まり、風に押されて揺れるのは古い張り紙くらいだった。
かつては賑わっていたらしい、と誰もが言う。祭りの日には肩が触れ合うほどだった、とも。
今の三狐商店街は、そんな話の残り香だけが歩いている。
それでも、商店街の奥へ進むほどに、灯りが一点だけ確かな輪郭を持つ。ガラス越しに温かい色が漏れていて、そこだけは朝の寒さが薄い気がした。
カフェ三狐。
店先の小さな看板に、昨日と同じ文字が掛かっているのを見ると、胸の奥がわずかにほどける。中村祐介はその前で深く息を吐いた。
裏路地の小さなパーキングに車を停め、歩いてここまで来るのが、もう習慣になっている。近いはずなのに、町の静けさの中を歩く数分は、研究室の時間よりずっと長く感じる。
ドアを押すと、鈴の音が短く鳴った。
「いらっしゃいませ、なのじゃ」
声の方を見ると、カウンターの内側に巫女服の少女がいた。
赤褐色の耳が、ふわりと揺れている。腰のあたりから伸びた同じ色の尻尾も、気分に合わせて小さく動いているように見えた。人の顔と同じように、彼女の感情が先にそこへ出る。
ヤコ。
祐介が見慣れているのは、彼女が客に向けるこの表情だった。柔らかく、どこか誇らしげで、少しだけ不器用な笑み。
「おはよう、ヤコ」
「おはよう、祐介。今日も早いのう」
「研究室の前に、寄りたくて」
祐介は席に荷物を置いて、いつものようにカウンターへ近づいた。言葉にしない安心が、この店にはある。まだ何も起きていない日常の匂い、とでも言うべきか。
「いつものにする?」
背後から声がした。
八雲夏樹が、エプロンの紐を結び直しながらこちらを見る。長い髪を一つにまとめた横顔は落ち着いていて、朝の店内に馴染みすぎていた。
「うん、いつもので」
「了解。座ってて」
夏樹は軽く手を振ると、奥へ引っ込む。ヤコはカウンターから身を乗り出し、祐介の顔を覗き込んだ。
「祐介、今日は目が疲れておるのう。昨夜も遅かったのかえ」
「うん、ちょっとね。データ整理が終わらなくて」
「無理はならぬ。妾が言うのじゃ、間違いないのう」
そう言ってヤコは、少し胸を張る。
祐介は苦笑しながら、椅子に腰を下ろした。彼女の古風な言い回しは、最初は戸惑ったものだ。今では、研究室の無機質な会話に慣れた耳に、その調子がやけに優しく響く。
ヤコは客席を見回して、他に客がいないのを確認すると、声を少しだけ落とした。
「今日は、商店街も静かじゃのう」
「いつも静かだろ」
「それはそうじゃが……今日は、静かさが深いのじゃ。底が見えぬ湖のような」
祐介は、その言葉に一瞬だけ引っかかった。
湖。
頭の片隅に、ずっと昔の光景が浮かびかける。夜の空気。懐中電灯の細い円。水面に映る月の光。そこにいた、あり得ないほど美しい存在。
祐介は軽く首を振って、その記憶を押し戻した。
「気のせいじゃない?」
「気のせいならよいのう」
ヤコはそれ以上、踏み込まなかった。ただ、耳が小さく伏せられるのを、祐介は見逃さなかった。
キツネ耳は嘘をつけない。
それがこの町で暮らし始めて、祐介が最初に覚えたことだった。
夏樹がコーヒーを運んできた。湯気が立ち上り、香りが広がる。ほんの少し、空気が現実へ戻った。
「はい、いつもの。今日は冷えるね」
「ありがとう」
祐介がカップに触れると、指先に熱が移る。その熱が、心臓のあたりまで届いてくるような気がした。
カウンターの向こうでヤコが、客用のメニューを整えている。紙の端を揃え、丁寧に置き直す。誰も見ていないのに、彼女はそれをする。そういうところが、祐介は好きだった。
研究室に戻れば、数値とグラフが待っている。予算削減の通知も、設備更新の見送りも、見慣れた書類の束の中に紛れている。
けれど、今だけは。
この店の温度の中で、まだ日常を信じていられる。
祐介はコーヒーを一口飲み、窓の外を見た。アーケードの先に、誰かの影が一つ通り過ぎる。足取りは速く、振り返りもせず、商店街の奥へ消えていった。
その背中が、なぜだかやけに“急いでいる”ように見えた。
ヤコがふと、顔を上げる。耳が僅かに立ち、尻尾の動きが止まる。
「……祐介」
「なに?」
ヤコは一瞬迷って、それからいつもの笑みに戻そうとした。けれど、うまく戻りきらない。
「なんでもないのじゃ。妾の気のせい、かもしれぬのう」
祐介はカップを置いた。
「気になるなら、言って。俺、聞くよ」
ヤコの瞳が揺れる。琥珀色の奥に、朝の灯りが小さく映っていた。
「……この町の空気が、少しだけ変わったような気がするのじゃ。まだ言葉にできぬ。けれど、妾の耳がそう言うておる」
祐介は、胸の奥がひやりとするのを感じた。
ヤコは、滅多に不安を言葉にしない。ましてや「耳がそう言う」とまで言うのは、彼女なりの確信に近い。
「……研究室の帰り、何かあったら連絡して」
「うむ。祐介も、気をつけるのじゃ」
夏樹が会話に気づいたのか、遠くから「どうしたの?」と首を傾げる。祐介は「なんでもない」と軽く手を振って返した。
言葉にすると、壊れてしまいそうだった。
朝の静けさの底に、何かが沈んでいる。
まだ姿のない“違和感”が、三狐町の下で息をしている。
祐介はコーヒーを飲み干し、立ち上がった。
「じゃあ、行ってくる」
「行ってらっしゃいませ、なのじゃ」
ヤコは笑ってそう言った。けれど耳は、最後まで少しだけ硬かった。
ドアの鈴が鳴る。
祐介が商店街へ出ると、冷たい風が頬を撫でた。アーケードの天井を見上げれば、曇ったガラスの向こうに白い空が広がっている。
——まだ、日常はここにある。
そう言い聞かせるように、祐介は裏路地へ向けて歩き出した。
その背中を、誰かが見ている気がして、ほんの少しだけ早足になった。
ポケットの中でスマホが震える。
画面に浮かんだ通知は、市からの非公開番号だった。
祐介は指を止めた。
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