第3話 失われた時を求めて
目の前に広がる霧の鏡には、俺の知らない屈強な男の姿が映っていた。
無精髭に土埃にまみれた野戦服、安煙草の紫煙。それは俺がかつて捨ててきた過去であり、喉から手が出るほど欲している未来の可能性だった。
『選べ。イエスと答えるだけでいい。今すぐお前の魂を、この強靭な
魔人の甘い囁きが脳髄に直接響く。
仲間たちには俺の過去は見えていないはずだ。彼女たちには、「聖女が伝説の英雄の姿に転生する儀式」のように見えているのかもしれない。
「……悪い話ではありませんね」
俺の喉が渇く。
聖女の重責を捨て、自由に生きられる体。寒さに怯えることもない最強の肉体。
「聖女様!しっかりなさいませ!」
「お嬢ちゃん、どうしたの!?目が虚ろよ!」
リーゼロッテとヴェロニカの声が遠く聞こえる。
彼女たちの声は焦燥に満ちていた。当然だ。今の俺は、何もない空間に向かって虚ろな顔で手を伸ばし、魔人の言葉に操られようとしているのだから。
「……ん。ご主人様、行かないで」
不意に袖を強く引かれた。セツナだ。
彼女は俺の手首を両手で掴み、泣き出しそうな顔で俺を見上げている。
「違う匂いがする。……その向こうに、ご主人様、いない」
「……セツナ?」
彼女の野生の勘が告げているのだ。あの鏡の向こうに行けば「俺」は満足するかもしれないが、「彼女たちのご主人様(セレスティア)」は消滅してしまうと。
「離しなさい、セツナ。……私は、もっと強くならなければならないのです」
俺は掠れた声で言った。聖女の仮面を被ったまま、内心の欲望を正当化しようとする。
「強くなってどうするのです?今の貴女様が不便だというのですか?」
「弱くない。……今の身体の、ご主人様が好き。温かい、匂いが好き。だから行かないで」
その言葉は、冷え切った俺の心臓に熱した楔のように打ち込まれた。
「……そうですわ、聖女様。何を迷っておられるのです」
リーゼロッテも俺の反対の手を取った。その手は冷たい甲冑越しでも分かるほどに震えていた。
「貴女様がどのような姿になろうと、私はお慕い申し上げます。ですが……貴女様が、貴女様自身を捨ててまで手に入れる強さなど私には不要です!傷つきながら、泥にまみれて戦う今の貴女様こそが、私の真実なのです!」
ヴェロニカも、やれやれとため息をついて俺の肩を抱く。
「お嬢ちゃん。見たことのない過去の幻影なんかに色目を使ってる場合じゃないわよ。……今の貴女には、こんなに可愛くて重たい『荷物(私たち)』が三つもぶら下がってるんだから。背負って生きなさいな」
三人の体温が俺を
幻影の中のヴォルフガングは、ニヤリと笑って俺を見ていた。まるで、「お前にはもう帰る場所があるだろう?」とでも言うように。
(……チッ。勝手なことを)
俺は自嘲気味に笑った。
そうだ。こいつらは聖女セレスティアとしての俺に救われ、依存し愛を捧げている。
俺が男の体を得てしまえばこの関係は壊れる。彼女たちの居場所もなくなる。
俺は選んだのだ。
あの雪山で卵を温めた時も、迷宮の壁をぶち抜いた時も。不便で貧弱なこの身体で泥臭くあがいて生きることを。
今さら別の
積み重ねてきた年輪は過去に戻ってやり直すものじゃない。今のこの場所で更新していくものだ。
「……悪かったですね、子羊たち。少しめまいがしただけですよ」
俺は伸ばしかけた手を引っ込め、強く拳を握りしめた。鏡の中の男がふっと紫煙となって消え失せる。
『……ほう。愚か者め』
魔人の声色が低く沈んだ。
『最強の肉体と栄光を捨て、敢えて弱き者として生きるか。……理解できぬ。人間の感傷など、非合理的な
「ええ。貴方のような幽霊には理解できないでしょうね」
俺はドレスのスカートをまくり上げ、ホルスターのロックを外した。
重厚な金属音が洞窟に響く。
「過去に未練はありません。……私の願いは一つ」
俺は可変式パイルバンカー『
「貴方をスクラップにして、このクソ寒い天気を変えることです!」
『ならば死ね。永久凍土の棺の中で、後悔と共に朽ち果てるが良い!』
魔人が腕を振るう。
洞窟内の吹雪が渦を巻き、無数の氷の槍となって俺たちへ殺到する。
「させませんわッ!」
ヴェロニカが防御結界を展開し氷礫を受け止める。だが魔人の力は強大だ。結界がミシミシと悲鳴を上げ亀裂が入っていく。
「リーゼロッテ、前へ!セツナ、私の足元を確保!」
「ハッ!」
「ん!」
俺の号令に、迷いの消えたヒロインたちが即座に応える。
もう誘惑は断ち切った。
あとは目の前の障害物を物理的に排除するだけだ。
「バレット!準備はいいですね!」
俺の懐から顔を出した幼竜が、ギャオッ!と勇ましく吼えた。
その口元には既に紅蓮の炎が宿っている。
反撃開始だ。
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