【最終話】魔法のいらない夜

「ルミナス」の重厚な扉が開くたび、冷たい冬の夜気がフロアに流れ込み、煙草の煙を白く踊らせる。新菜にとって、この店で過ごす最後の夜が、静かに更けようとしていた。


 鏡の前で、新菜は最後のドレスアップを終える。選んだのは、初めてこの店に来た日に着せられた、あの真っ白なドレスだった。  かつては、自分を「お嬢様」に見せるための偽装の白だった。けれど今は違う。汚れた指先で、誰かの孤独を必死に掬い上げてきた日々。そのすべてを包み込み、新しい世界へ向かうための、決意の白だ。


「……最後くらい、もっと派手なのを着ればよかったのに」


 背後で、アキナがいつものように加熱式タバコの紫煙を吐き出した。新菜は振り向き、鏡越しではなく、真っ直ぐにアキナの瞳を見つめた。


「アキナさん。……私、ずっと言いたかったことがあります」


「何よ。湿っぽいのは嫌いだって言ってるでしょ」


 新菜は一歩踏み出し、アキナの前に立った。  かつて教わった「さしすせそ」を脳裏から消した。さすがですね、しりませんでした、すごいです……。そんな「相手を転がすための型」は、今の二人にはもう必要なかった。


「……私を、人間にしてくれて、ありがとうございました」


「……は?」


「アキナさんが『さしすせそ』を教えてくれなかったら、私は誰とも繋がれないまま、ただの空っぽな標本として死んでたと思います。嘘をつくことで、私は初めて、誰かの心の痛みを知ることができました。……アキナさんは、私の人生で最初の、師匠です」


 新菜は、深く、腰を折って頭を下げた。  更衣室に満ちる、使い古されたヘアスプレーと香水の混ざった匂い。それが今は、何よりも愛おしい、戦友の匂いに感じられた。


 沈黙が流れた。  アキナはしばらく黙っていたが、やがてフッと鼻を鳴らし、新菜の肩を小突いた。


「……バカね。あんたが勝手に見つけたのよ。泥の中から、宝石の磨き方をね。……さあ、行きなさい。最後の客が待ってるわよ」


 フロアに出ると、隅の席に健太郎が座っていた。  警備員の制服ではない、着慣れないスーツ姿。彼は照れくさそうに、小さな花束をテーブルに置いていた。


「新菜さん。……本当におめでとうございます」


「健太郎さん。……来てくれたんですね」


 新菜は、彼の隣に座った。  健太郎の体からは、夜の冷気と、ほんの少しだけ参考書の紙の匂いがした。  二人の間に、過剰な盛り上げも、お世辞も、相槌の技術もいらない。ただ、共に夜を越えてきた者同士の、静かな時間が流れる。


「明日からは、もうここにはいないんですね」


「はい。……明日からは、白衣の世界です。でも、健太郎さんが言ってくれた『本当の声』、ずっと忘れません。誰かの痛みに触れるとき、私はきっと、この夜のことを思い出すと思います」


 新菜は、健太郎の花束に鼻を寄せた。かすかな花の香りが、酒の匂いを一時的に忘れさせてくれる。


「健太郎さんも。司法試験、絶対に受かってください。……あなたが守ろうとしている正義を、私、いつか見せてほしいです」


「……約束します」


 健太郎は力強く頷いた。  閉店のベルが鳴る。  「ルミナス」の魔法が解ける合図だ。


「さよなら、健太郎さん」


「……さよなら。いいえ、頑張ってください。新菜さん」


 健太郎の背中が、夜の喧騒の中に消えていく。  新菜はフロアを見渡した。藤堂が座ったソファ、岩田が語ったテーブル、部長と乾杯したカウンター。  そのすべてが、愛おしい「フィールドワーク」の現場だった。


 ――午前五時。  新菜は、更衣室で最後のドレスを脱いだ。  代わりに身に纏うのは、新しく買った、パリッとしたシャツと、飾りのないスカート。


 ロッカーを空にする。  三万文字以上を書き連ねたフィールドノート、ボロボロの通帳、そして、大切に抱えてきた看護学校の入学許可証。  それらをバッグに詰め、新菜は最後に一度だけ、更衣室の鏡を見た。


 そこには、マスカラを塗りたくった「にいな」ではなく、凛とした瞳をした「新菜」が立っていた。    店を出ると、冷たい朝の空気が肺を満たした。  新宿の街は、まだ眠っている。  けれど、東の空からは、すべてを白く塗り替えるような眩しい光が溢れ出していた。


 御茶ノ水行きの電車に揺られ、新菜は窓の外を眺めた。  線路沿いに咲き始めた桜が、朝日に照らされている。    駅を降り、坂を上る。  校門の前には、真っ新なスーツを着た新入生たちが集まっていた。  彼女たちの手は、まだ何も知らない、綺麗な手かもしれない。  けれど新菜は、自分の少し荒れた、爪の間に夜の記憶を残したこの手を、もう恥じてはいなかった。


 講堂の壇上には、「入学式」の文字。  新菜は、深く息を吸い込んだ。


(……聞こえる。私の、本当の声が)


 「さしすせそ」という魔法の杖は、もう捨てた。  これからは、この手で、この言葉で、誰かの命に触れていく。


 名前を呼ばれるのを待ちながら、新菜は心の中で、自分自身に、そして夜の街に、最後の一言を贈った。


「……そうなんだ。私、やっと、ここに来られたんだね」


 眩しい光の中、一筋の涙が新菜の頬を伝った。  それは悲しみではなく、新しく始まる「物語」への、最初の乾杯のような一滴だった。


 新菜は真っ直ぐに、前を見つめた。  白衣の白が、視界の向こうで輝いていた。


【夜のさしすせそ、朝の白衣】――完――


全14話にわたる新菜の成長物語、これにて完結です。 嘘を武器にして戦った少女が、最後には言葉の真髄を掴み、真の「ケア」の道へと進む姿を一緒に描くことができ、私も感慨深いです。


物語全体を振り返って、あるいは新菜のその後について、何か感想や気になったことはありますか?


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