【第13話】本当の「そ」うなんだ

「ルミナス」のフロアに漂う空気は、以前よりもずっと、新菜の肺に馴染んでいた。  シャンデリアの眩しさは相変わらずだが、鏡張りの壁に映る自分を見ても、もう「誰かを演じている」という違和感に吐き気を覚えることはない。


 新菜は、客の隣に座ると、まずその人の呼吸に合わせるように、深く、静かに息を吐いた。


「新菜ちゃん、なんか……雰囲気変わったな。前はもっと、こう、キラキラした『お嬢様』って感じだったけど」


 目の前に座る中年男性は、手持ち無沙汰そうにグラスを回した。かつての自分なら、ここで即座に「さすが、見抜くのがお早いですね!」と弾んだ声を投げていただろう。


 けれど今の新菜は、穏やかに微笑み、ただ真っ直ぐに彼の目を見つめた。


「……そうですか? たぶん、背負っていたものを、少しだけ降ろしたからかもしれません」


 言葉は、喉の奥で濾過されたように澄んでいた。  男は少し驚いたように眉を上げたが、やがてふっと肩の力を抜いた。


「……実はさ、会社でトラブルがあって。部下が勝手に契約を飛ばしたんだ。俺が頭を下げて回って……正直、もう全部投げ出して、どっか遠くへ行きたいよ」


 男は力なく笑い、ウイスキーを流し込んだ。  新菜は、反射的に「大変ですね」と返すのを止めた。彼の掌の震え、グラスを置く時の重たい音、そして、言葉の端々に滲む「見捨てられることへの恐怖」に、全神経を集中させた。


「……そうなんだ」


 それは、記号としての『そ』ではなかった。  相手の孤独な闇の中に、自分も一緒に足を踏み入れ、隣に座り込むような、重みのある肯定。


「……一人で、全部背負ってこられたんですね。怖かったですよね。自分が壊れてしまいそうで」


 男の動きが、止まった。  氷が溶けて、カチンと小さな音を立てる。  彼は新菜を見ようとはせず、ただじっと、自分の震える手を見つめていた。


「……ああ。怖かった。俺がいなくなっても、会社も世界も回っていくんだと思ったら、自分がゴミみたいに思えてきてさ」


「……ゴミなんかじゃありません」


 新菜は、そっと彼の手に自分の手を重ねた。  かつて「汚れている」と忌み嫌った自分の手のひら。けれど今は、その微かな体温が、震える誰かを繋ぎ止めるための「錨(いかり)」になれることを知っている。


「私も、同じでした。誰からも必要とされていないと思って、自分を嘘で塗り固めて。……でも、ここに座っている今のあなたは、間違いなく私にとって『大切な一人』です。あなたが今日まで踏ん張ってきたことを、私はちゃんと見ています」


 男の目から、一滴の涙が溢れ、テーブルの木目に吸い込まれていった。  彼は何度も頷き、消え入りそうな声で「ありがとう」と繰り返した。


 接客という名の、魂の診察。  相手の傷口を見つめ、そこにそっと手を添える。  それは、藤堂が言った「儀礼」であり、健太郎が信じた「言葉の力」であり、そして、新菜が目指す「看護」の核心そのものだった。


 深夜。客が帰り、静まり返った更衣室。  新菜はロッカーの奥から、ボロボロになった一冊の通帳を取り出した。  記帳された数字の並び。  一円、十円まで、夜の街で耐え抜き、笑い、泣き、そして誰かと心を通わせて積み上げてきた証拠。


「……たまった」


 最後の一行に刻まれた数字。  入学金、前期授業料、教材費。そして、当面の生活費。  目標としていた全額が、そこにはあった。


 新菜は、通帳を胸に強く抱きしめた。  鼻を突くヘアスプレーの匂いも、更衣室の湿った空気も、今は愛おしい。  「施設育ちの可哀想な子」という呪いは、いつの間にか、「自分の力で未来をこじ開けた女」という誇りに変わっていた。


「……おめでとう、新菜」


 背後で、アキナが鏡を拭きながら言った。  彼女は振り向かず、ただ鏡越しに、新菜の晴れやかな顔を見つめていた。


「ありがとうございます、アキナさん。……私、明日、願書を出してきます。ずっと、ずっと、これが欲しかったんです」


「……そう。長かったわね」


 アキナは手を止め、ゆっくりと新菜の方を向いた。  彼女の瞳には、かつてのような冷たい光はなく、ただ静かな夜の海のような慈しみがあった。


「あんた、最近の接客……もう『さしすせそ』を使ってないわね」


「……気づいてました?」


「当たり前でしょ。あんたの声、更衣室まで響いてるわよ。……今のあんたが言ってる『そうなんだ』は、相手の命を半分預かってるような音がする。……それ、看護師には一番必要な才能よ。言葉で、血を止めてるんだから」


 新菜は、涙が溢れるのを堪えて、深く頷いた。  汚れの落ちないと思っていた手のひら。  今は、そのシワの一つ一つに、自分が生きてきた物語が刻まれている。


 翌朝。  新菜は新宿の郵便局の窓口に立っていた。  手には、大切に書き上げた願書入りの封筒。  「速達でお願いします」  そう言った自分の声は、かつてないほど力強く、真っ直ぐに朝の空気を震わせた。


 窓口の職員が「はい、承りました」と微笑む。  その何気ないやり取りさえも、今の新菜にとっては、世界と正当に繋がっている証のように感じられて、誇らしかった。


 郵便局を出ると、眩しいばかりの冬の太陽が、新宿のビル群を白く染めていた。  夜の魔法は、もういらない。  新菜は、自分の足で、朝の光の中へと踏み出した。


【第13話】完


新菜が「言葉」を「ケア」へと昇華させ、ついに夢への切符を手にした第13話。 次は、いよいよ本当の最終回。 夜の世界との決別、そして白衣の未来へ向かう 最終話「新しいさよなら」 です。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る