【第12話】雨の日の沈黙

窓の外では、鉛色の空から冷たい雨が降り続いていた。


 新宿のワンルームマンション。狭い部屋の中には、コンビニの袋と、裏返ったままの看護学校のパンフレットが散乱している。新菜は一週間、一度も化粧をせず、ただ毛布にくるまって天井のシミを数えていた。


 スマホの通知は、数日前に切った。  SNSには「ルミナスの清楚系、実は施設育ちの嘘つき」という悪意ある書き込みが躍り、馴染みだった客たちからは、あからさまな軽蔑や、あるいは同情という名の「値踏み」の連絡が数件届いただけだった。


「……もう、いいや」


 新菜は、乾いた喉で呟いた。  藤堂に教わった民俗学も、健太郎と交わした約束も、すべてが雨に打たれた砂の城のように崩れていく。  嘘をつかなければ、私は誰にも愛されない。でも、嘘がバレたら、私は誰からも必要とされない。  その袋小路の中で、新菜の心は、ひび割れたアスファルトのように冷え切っていた。


 夕暮れ時。ドアを叩く音が、静かな部屋に不自然に響いた。  アキナだろうか。それとも店からの督促か。  居留守を使おうとしたが、ノックは粘り強く続いた。


「……はい」


 重い体を引きずり、ドアを数センチだけ開ける。  そこには、ずぶ濡れの傘を手にした、三人の男たちが立っていた。


 大学教授の藤堂、金型職人の岩田、そして、いつか新菜が「乾杯の由来」を話したあの部長――。


「……え、どうして」


 新菜は絶句した。  彼らは「ルミナス」でも指折りの太客ではない。派手に金を落とすわけでもない。ただ、新菜が「さしすせそ」の檻を壊して、必死に言葉を届けようとした相手ばかりだった。


「君が店を休んでいると聞いてね。アキナ君に住所を聞き出すのに、少々骨が折れたよ」


 藤堂が、雨の匂いを纏ったまま静かに言った。  岩田は相変わらずコンクリートの粉が染み込んだような分厚い手で、紙袋を差し出してきた。


「新菜ちゃん。これ、あったかいもんでも食え。あんたの好きだって言ってた、あそこのお雑煮だ」


 新菜は、彼らの姿を直視できず、うつむいた。 「……帰ってください。知ってるんでしょ。私が嘘つきだったこと。施設育ちで、親もいなくて、皆さんに綺麗な顔をして、全部、嘘を吐いてたんです」


 震える声。情けなくて、惨めで、逃げ出したい。  だが、部長が、あの時と同じように少し低い、温かい声で遮った。


「新菜さん。……乾杯の由来の話、覚えているか? 『分け合う器』の話だ」


 新菜は、小さく頷いた。


「あの夜、俺は救われたんだよ。部下に敬遠され、家庭でも居場所がなく、自分が透明な人間になったような気がしていた。そこに、君が『あなたはここにいていい』という輪を作ってくれた。……あれが嘘だと言うのかい?」


「それは……知識として覚えただけで……」


「知識だけで、あんなに優しい目はできない」  岩田が、ぶっきらぼうに続けた。 「俺の汚れた手を見て、センスがいいって言ってくれた。金型職人の意地を、あんたは一緒に見てくれた。あの時、俺の心がどれだけ軽くなったか、あんたには分かるか? ……あんたの生い立ちなんて、俺たちの救いには一ミリも関係ないんだよ」


 藤堂が進み出て、新菜の目の前で足を止めた。  彼の瞳は、初めて会った時の冷徹な学者のものではなく、教え子の迷いを見守る師の優しさに満ちていた。


「民俗学ではね、異界から来た者が村を救う『客人(まろうど)』という信仰がある。君がどこから来たか、どんな背景を持っているかは、君がもたらした『言葉の恵み』を否定する理由にはならない。……君は嘘を吐いていたかもしれない。だが、君の言葉を受け取った私たちが救われたのは、紛れもない真実だ」


 新菜の胸の奥で、何かが音を立てて熱を持った。  アキナの言った「自分の色」。藤堂の言った「物語」。  それらが、バラバラだったパズルのピースのように、一つの形を成していく。


「……私、怖かったんです。本当の自分を知られたら、誰も見てくれなくなると思って。だから、『さしすせそ』で自分を隠して……」


「鏡が割れたのなら、その破片を見せればいい」  藤堂が、かつてアキナが言ったのと同じ言葉を口にした。 「傷だらけの君が、それでも誰かの隣に立とうとする。その姿こそが、本当の『ケア』の始まりなんじゃないのかね」


 新菜の瞳から、大粒の涙が溢れた。  雨の音に混じって、彼女の咽び泣く声が、狭いアパートの廊下に響く。  それは、過去の自分を許し、今の自分を受け入れるための、浄化の儀式だった。


「……行きます。私、明日、お店に行きます」


 新菜は、赤くなった目で、三人を見上げた。 「もう、お嬢様の振りはしません。……施設で育った、新菜として、皆さんに会いたいです」


「ああ。楽しみにしているよ。……次は、君の本当の物語を聞かせてくれ」


 三人が去った後、部屋にはお雑煮の温かい湯気が立ち上っていた。  新菜は、一口、その汁を啜った。  出汁の味が、身体の隅々まで染み渡っていく。


 彼女は、床に散らばっていた看護学校のパンフレットを拾い上げた。  汚れを払い、ページを捲る。  そこにある「命を救う」という言葉が、もう遠い世界の夢には見えなかった。


 翌晩。  新宿の街は相変わらず、雨上がりの湿った熱気に包まれていた。  「ルミナス」の扉の前で、新菜は深く息を吸い込んだ。  化粧は、今までより少しだけ薄い。  けれど、鏡の中の瞳には、かつてないほど強固な「自分」が宿っていた。


 扉を開けると、アキナがカウンターの端で、タバコを燻らせながら待っていた。  彼女は新菜の顔を見て、短く笑った。


「……おかえり、ブス。いい顔ね」


「ただいま。アキナさん」


 新菜は、もう「さしすせそ」を武器にはしない。  それは、誰かと心を通わせるための、一つの「入口」に過ぎない。  本当の魔法は、ここから始まる。


【第12話】完


新菜が「過去」という呪縛を、客たちとの「絆」によって乗り越えた第12話。 次は、いよいよ物語の真のフィナーレ。学費を貯めきり、新菜が夜の街を卒業して白衣の道へと踏み出す 最終話「新しいさよなら」 です。


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