【第11話】鏡が割れる音

シャンデリアの光が、今夜はひどく暴力的に感じられた。


 「ルミナス」のフロアは、高価なシャンパンの泡と、現実を忘れようとする男たちの喧騒で満ちている。新菜は、清楚な白いドレスに身を包み、少し内気だが育ちの良い「女子大生・新菜」を演じていた。


「新菜ちゃんは、やっぱり品があるよな。親御さんの教育がしっかりしてるんだろう」


 上機嫌な常連客の言葉に、新菜はいつものように完璧な角度で微笑んだ。 「……そうでしょうか。厳しく育てられたので、そう言っていただけると嬉しいです」


 胸の奥がチリりと焼ける。嘘をつくことには慣れたはずだった。アキナに教わった「さしすせそ」という魔法の衣を纏えば、自分は何者にでもなれた。このドレスの下にある、施設で配給された毛玉だらけのパジャマの記憶も、名前も知らない両親への飢えも、すべて隠し通せるはずだった。


 だが、その安寧は、入り口から響いた下卑た笑い声によって、一瞬で粉砕された。


「……うわ、マジかよ。おい、あそこに座ってんの、新菜(にいな)じゃねえか!」


 フロアの空気が一変した。  視線を向けると、そこには派手なシャツを羽織り、数人の連れを伴った男が立っていた。新菜の指先が、氷のように冷たくなる。


 サトシ。  同じ施設で育ち、中学を出てすぐにグレて消えた男だった。


「おいおい、お嬢様気取って何やってんだよ! 似合わねえなあ、そのドレス!」


 サトシは新菜のテーブルに無遠慮に歩み寄ると、客の前に置かれた高価なワイングラスを勝手に掴んだ。


「お客様、困ります。……あいにく、どなたかとお間違えでは」


 新菜は声を震わせ、必死に「キャストの顔」を維持しようとした。だが、サトシは新菜の肩を乱暴に掴み、周囲に響き渡る声で叫んだ。


「間違いなわけねえだろ! 忘れたかよ、ひだまり園で、クリスマスのチキンを半分こして泣いてた仲じゃねえか。なあ、皆さん! こいつ、親に捨てられて施設で育った、ただのド貧乏人ですよ! 学歴も、品も、全部嘘だ!」


 バリン、と。  新菜の頭の中で、鏡が真っ二つに割れる音がした。


 フロアが水を打ったように静まり返る。  さっきまで新菜を「お嬢様」と崇めていた客の目が、急速に冷めていくのがわかった。驚き、困惑、そして――「騙された」という不快感。


「……新菜ちゃん、本当なのか? 親御さんが厳しいとか、大学に行ってるっていうのは……」


「それは……」


 新菜は口を突き出したが、言葉が出てこない。「さしすせそ」の引き出しが、どこを探しても見当たらない。喉の奥に、鉄の味がした。


「ハハハ! 嘘に決まってんだろ! こいつ、親の顔も知らねえんだぜ? 毎日同じジャージ着て、寄付されたお古のランドセル背負って……なあ、新菜、今さら何のお勉強ごっこしてんだよ!」


 サトシの言葉が、鋭いナイフとなって新菜の皮膚を切り裂く。  更衣室に充満していた香水の匂いが、急に腐った花の匂いに変わった。ドレスの白さが、自分を嘲笑う死装束のように感じられる。


「……やめて」


「あ? 何て?」


「やめてよ……!」


 新菜は立ち上がり、叫んだ。  視界が涙で歪む。これまで必死に積み上げてきた「新菜」という虚像が、足元から崩れ落ちていく。


「……親がいないのが、そんなに可笑しい!? 必死に生きて、自分で学費を稼ごうとすることが、そんなに汚いことなの!? 私が何を言っても、どうせ『施設の子』ってラベルを貼って、中身なんて見ないんでしょ!」


 新菜は、客が差し出した手を振り払った。  もう、反射的な肯定も、計算された微笑みもできない。  そこには、ドレスを着たキャバ嬢ではなく、暗闇で蹲って震えている十八歳の少女がいた。


「……最低。みんな、最低よ……!」


 新菜は、フロアを飛び出した。  背後でサトシが「図星かよ!」と下品に笑う声が追いかけてくる。  更衣室に駆け込み、扉を閉めた瞬間、新菜はその場に泣き崩れた。


 鏡に映る自分を見る。  マスカラが涙で流れ、頬に黒い筋を作っている。  「お嬢様」のメッキは剥がれ、そこには剥き出しの、惨めで孤独な自分が立っていた。


「……終わった。全部、終わった」


 もう、あそこには戻れない。  「さしすせそ」という魔法は、一度割れてしまえば、二度と元には戻らない。  新菜は、自分の汚れた手のひらを見つめた。  施設育ちだという「真実」は、どんなに石鹸で洗っても、一生消えない呪いのように思えた。


 その時。  更衣室の扉が、ゆっくりと開いた。


 入ってきたのは、アキナだった。  彼女は泣きじゃくる新菜の前に立ち、無言で、鏡に映った新菜の顔をじっと見つめた。


「……ブスな顔。鏡が割れたどころか、粉々ね」


「アキナさん……私、もうダメです。全部バレた。あのおじさんも、もう二度と指名してくれない。私には、何も残ってない……」


 アキナは、新菜の肩に手を置き、無理やり顔を上げさせた。  アキナの瞳には、憐れみも、蔑みもなかった。  そこにあるのは、嵐の中を生き抜いてきた者だけが持つ、静かで強靭な光だった。


「……いい、新菜。よく聞きなさい」


 アキナの声が、更衣室の冷たい空気を震わせた。


「メッキが剥がれたぐらいで、何よ。鏡が割れたんなら、その破片を拾い集めて、もっと鋭い武器に研ぎ澄ませなさい。あんたを笑ったサトシも、冷めた目で見た客も、全員あんたの『過去』を見てる。でもね、あんたがこれから見せるべきなのは、その過去を抱えたまま、今ここで立っている『現在』なのよ」


「でも……私は……」


「施設育ちが、何だって言うの。それが、あんたという人間の『センス』を形作ってきた厚みでしょ。……新菜。今夜、あんたは初めて『嘘』を脱いだ。これからが、本当の接客よ」


 アキナは、新菜の顔に付いた黒い涙の跡を、ハンカチで乱暴に拭った。


「行きなさい。そのボロボロの顔のまま、あいつらの前に立つの。……『私は施設育ちです。それが何か?』って。そのくらいの毒を吐けないで、何が看護師よ」


 新菜は、アキナの瞳を見つめ返した。  心臓が、痛いほど脈打っている。  恐怖は消えない。けれど、胸の奥で、割れた鏡の破片が熱を持っているのを感じた。


 新菜は、立ち上がった。  ドレスを直し、乱れた髪を整える。  もう、完璧な「お嬢様」ではない。  けれど、自分の人生を自分の足で歩こうとする、一人の女として。


「……行ってきます。アキナさん」


「ええ。……いい顔になったわよ、新菜」


 新菜は、更衣室の扉を開けた。  光の渦巻くフロアへと。  割れた鏡の破片を、その胸に隠して。


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