【第10話】健太郎の問い
深夜二時の代々木公園。街灯の光が、新菜の履く高いヒールの影を長く、細く、アスファルトの上に伸ばしていた。
キャバクラ「ルミナス」を上がり、始発を待つ間のこの一時間が、新菜にとっての「結界」だった。夜の嘘と、朝の真実が混ざり合う、薄い闇の時間。
「……お疲れ様です。今日も、遅いんですね」
ベンチに座る新菜に、控えめな声がかけられた。夜間警備員の制服に身を包んだ、健太郎だった。彼は重そうな警備灯を足元に置き、少し離れた場所に腰を下ろした。
「健太郎さんも。司法試験、順調ですか?」
「どうでしょうね。憲法を読んでいると、自分が守りたい『正義』がどこにあるのか、たまに見失いそうになります」
健太郎は苦笑いして、分厚い参考書を膝に置いた。新菜はいつもの癖で、反射的に「さしすせそ」の引き出しを開けようとした。
「すごい……。健太郎さんは、正義を求めて戦っているんですね。さすがです、そんなに努力できる人、なかなかいません」
完璧な角度の微笑。淀みのない肯定。 けれど、健太郎はそれを受け流す代わりに、静かに、新菜の瞳の奥をじっと見つめた。
「……新菜さん。それ、もういいですよ」
「え……?」
「その、完璧な相槌。……君がそれを言うたびに、君の本当の心が、遠くへ逃げていくような音がするんです」
新菜の指先が、バッグの持ち手を強く握りしめた。夜風が通り過ぎ、木々がザワリと鳴る。 「……何のこと、ですか。私はただ、健太郎さんの頑張りを……」
「君が賢いのは知っています。相手が何を欲しがっていて、どんな言葉を投げてやれば喜ぶか。君はそれを鏡みたいに映し出しているだけだ。……でもね、新菜さん。鏡には、体温がない」
健太郎の言葉は、藤堂の鋭い批判とも、アキナの厳しい叱咤とも違っていた。それは、剥き出しの刃ではなく、ただそこに置かれた温かい石のような、静かな真実だった。
「君は『さしすせそ』という檻の中に、自分を閉じ込めてる。それを使い続けていれば、誰にも傷つけられないし、嫌われない。でも、それじゃあ誰にも触れられない。君の手が、あんなに熱いのは、本当の言葉を喉の奥で握りしめているからじゃないんですか?」
「……勝手なこと、言わないでください」
新菜の声が震えた。 「私には、これしかないんです。親もいなくて、帰る場所もなくて。嘘をつかなきゃ、笑顔を売らなきゃ、未来の授業料すら払えない。本当の言葉なんて……そんな贅沢なもの、私にはまだ早いんです」
「贅沢じゃない。……命ですよ、言葉は」
健太郎は立ち上がり、新菜の目の前まで歩み寄った。警備員の制服からは、夜の土と、安っぽいコーヒーの匂いがした。
「俺だって、この制服を着ている間は『透明な存在』です。街の人からはゴミみたいに見られる。でも、俺が参考書を捲る指先には、俺だけの血が通ってる。……君が看護学校のパンフレットを握りしめているその手も、同じだ。君が夜の街で耐えて、飲み込んできたその沈黙は、いつか誰かを救うための『本当の力』に変わる」
健太郎は、新菜の赤く腫れた、けれど強く結ばれた拳を指差した。
「君の本当の言葉は、もっと力強いはずだ。綺麗な『さしすせそ』なんて捨てて、君自身の声で、君自身の痛みを語っていい。……俺は、その声を聞きたい」
「……っ」
新菜の目から、堰を切ったように涙が溢れた。 「さしすせそ」という五文字では到底表現できない、泥臭くて、情けない、やりきれない感情が、嗚咽となって漏れ出す。
「……苦しいよ……っ。本当は、おじさんたちの自慢話なんて聞きたくない。嘘をついて笑うたびに、自分が薄汚れていく気がして……。でも、そうしなきゃ、私はどこにも行けない……!」
新菜は顔を覆って泣いた。 健太郎は、そっと彼女の肩に手を置いた。触れられた場所から、夜警の仕事で冷え切っているはずの彼の体温が、じわりと伝わってくる。
「……聞こえましたよ。新菜さんの、本当の声」
健太郎は優しく笑った。 「その苦しさが、君の『色』です。嘘を吐けるほど器用なのに、自分を汚れていると感じる。その潔癖さこそが、君が看護師になれる一番の証拠だ」
新菜は涙を拭い、霞んだ視界で健太郎を見た。 東の空が、わずかに白み始めている。
「健太郎さん……。私、次の接客から、一つだけ変えてみます」
「何を?」
「『そうなんだ』の次に、一言だけ、自分の本音を添えてみます。……『私も、同じように苦しいです』とか、『それは、寂しいですね』とか。……記号じゃない、私の体温を混ぜてみます」
「いいと思います。……それが、君の白衣への第一歩だ」
健太郎は警備灯を手に取り、仕事に戻る準備を始めた。 「始発が来ますよ。……おやすみなさい、新菜さん。いいえ、おはようございます」
「……おはようございます、健太郎さん」
新菜は立ち上がり、大きく伸びをした。 足の裏の痛みは相変わらずだったが、心臓の奥には、確かな自分の鼓動が響いていた。
バッグの中には、藤堂との対話を書いたノートと、学費の封筒、そして健太郎が拾ってくれたパンフレット。 夜の嘘を、朝の力に変えていく。
新菜は、眩しくなり始めた朝焼けに向かって、真っ直ぐに歩き出した。 もう、鏡を演じる必要はない。 彼女は今、自分自身の言葉という、最高に力強い「魔法」を手にしていた。
【第10話】完
新菜が「本当の自分の声」を取り戻し、キャバ嬢から看護師への脱皮を確信した最終話。 「さしすせそ」を捨てた彼女の未来には、眩い朝の光が待っています。
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