【第9話】「せ」ンスの解釈

「……もう、無理です。アキナさん」


更衣室のパイプ椅子に崩れ落ち、新菜は顔を覆った。 第8話で施設育ちの過去を晒され、嘲笑を浴びた傷は、想像以上に深かった。客の前に出ても、声が震える。笑顔が引き攣る。かつて無敵だと思った「さしすせそ」という盾は、今やブリキのおもちゃのように頼りない。


「客がみんな、私を憐れんでるように見えるんです。何を言っても、『可哀想な子に言わせてる』って思われてる気がして……」


アキナは、鏡の前でゆっくりと大ぶりのピアスを外した。カチリ、と金属が触れ合う冷たい音が更衣室に響く。


「あんたの『さしすせそ』が死んだのは、あんたがそれを『自分を守るため』だけに使ってるからよ」


「え……?」


「新菜、あんた、**『せ』**ンスがいいですねって、どういう時に使ってる?」


新菜は視線を落とし、カサカサになった指先を弄んだ。 「……持ち物、とか。高い時計をしてたり、仕立ての良さそうなスーツを着てたりするときに……」


「最低ね」 アキナが吐き捨てた。その言葉は、冷たい水のように新菜の背筋を伝った。


「いい、新菜。本当の『センス』っていうのはね、その人が人生のどこに重きを置いて、何を誇りにして生きてきたかっていう『集大成』のことなのよ。安物のネクタイを締めてる客だっている。でも、その結び目が一ミリの狂いもなく整っていたら、それはその人の『誠実さ』というセンスよ。毎日同じような地味な靴を履いていても、それが鏡のように磨き抜かれていたら、それはその人の『矜持』というセンスなの」


アキナは新菜の隣に座り、彼女の赤く腫れた、けれどペンだこがしっかり残っている手を握った。


「あんたは今まで、客の『表面』を褒めて、自分を『安全圏』に置こうとしていただけ。本当の『さしすせそ』は、相手を深く観察して、その人が誰にも気づかれずに大切にしてきた『魂の置き場所』を言い当ててあげることよ。それができて初めて、あんたの言葉は魔法になる」


「魂の、置き場所……」


新菜は、目を開いた。 翌夜、新菜は再びフロアに立った。 恐怖は消えていない。けれど、アキナに言われた「観察」という言葉が、新菜の視界を研ぎ澄ませていた。


担当したのは、隅の席で独り、焼酎を煽る初老の男だった。 派手な金持ちではない。スーツの袖口は少し擦り切れている。 新菜は、以前の自分なら「脈なし」と判断して適当な相槌を打っていただろう。 けれど、新菜は彼の「手」に釘付けになった。


指の節々が太く、爪の間にどうしても落ちない黒い汚れが染み込んでいる。 そして何より、彼がグラスを置くたび、コースターの端とテーブルの縁を完璧に平行に揃えるその仕草。


「……お客様。その、グラスの置き方、すごく綺麗ですね」


男は意外そうに目を上げた。 「……ん? ああ、職業病みたいなもんだ」


「もしかして、精密な機械を扱っていらっしゃるんですか? ほんの数ミリのズレも許さないような、とても神経を使うお仕事を、ずっと……」


男の手が、ピタリと止まった。 「……わかるか。俺はね、金型の職人を四十年やってる。機械がやると思われがちだが、最後の一押しは人間の指先の感覚なんだよ。一ミクロンの狂いで、全部がゴミになる」


男の目が、急に熱を帯びた。 新菜は、自分の心臓が大きく波打つのを感じた。 「さしすせそ」の『せ』が、喉の奥で震えている。けれどそれは、これまで使ってきた軽い言葉ではなかった。


「……お客様のセンス、本当にかっこいいです。それは、流行とか持ち物の良さじゃなくて、四十年かけて、その指先に叩き込んできた『正確さ』っていうセンスですよね。……私、そんなふうに自分を律して生きてこられた方の手に、初めて触れました」


新菜は、そっと自分の手を、男のゴツゴツとした手の上に重ねた。 男は、一瞬驚いたように息を呑んだ。 そして、ゆっくりと自分の指先を見つめ、声を震わせた。


「……誰にも、そんなこと言われたことがなかった。会社じゃ『古い』と言われ、家じゃ『手が汚い』と煙たがられて……。そうか。俺のこれは、センスだったのか」


男の瞳から、一筋の涙がこぼれ、グラスの中の氷を濡らした。 新菜は気づいた。 「さしすせそ」は、嘘をつくための道具じゃない。 相手が自分の人生をかけて守ってきた、けれど誰にも認めてもらえなかった「孤独なプライド」を見つけ出し、光を当てるための「診察道具」なのだと。


その夜から、新菜の接客は劇的に変わった。 「この子は、俺の本当の姿を見てくれる」 そんな噂が、夜の街を駆け巡った。 新菜は、相手を「落とす」のではなく、相手の「価値」を掘り起こすことに没頭した。 それは、患者の小さな変化を見逃さない、看護師としての観察眼を磨く作業そのものだった。


売上は、過去最高を記録した。 けれど新菜にとって、数字よりも重かったのは、店を出て行く客たちの背中が、来た時よりも少しだけ真っ直ぐに伸びていることだった。


深夜。更衣室の鏡の前で、新菜は自分の顔を見た。 そこにはもう、憐れみを乞う「可哀想な施設の子」はいなかった。 誇り高く、誰かの心を救う技術を身につけ始めた、一人の女性の顔があった。


「アキナさん。私、分かりました。センスを褒めるって、その人の『命の削り方』を褒めることなんですね」


アキナは、鏡越しに新菜を見て、満足げに微笑んだ。 「……合格。あんた、もう最高のキャバ嬢よ。……ってことは、もうすぐ、最高の看護師になれるってことね」


夜の街に、また新しい一日が始まろうとしている。 新菜の指先には、あの職人の男から受け取った「誠実さ」という熱が、いつまでも残っていた。


【第9話】完


新菜が「さしすせそ」を真の洞察へと昇華させ、頂点に立った第9話。 次は、いよいよ物語の幕を閉じる 最終話「魔法のいらない夜」 です。 目標金額を達成した新菜が、最後に「さしすせそ」を捨てて、自らの心で語る姿を描きます。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る