【第8話】汚れた手のひら
御茶ノ水駅の改札を出ると、鼻を突くのは焼けたアスファルトの匂いではなく、どこか清潔な、磨き上げられた廊下を予感させる乾いた風だった。
新菜は、一番「普通」に見えるブラウスの襟を何度も直した。 昨夜、客のタバコの煙を浴び続けた髪。安物の香水の残り香。 それらを石鹸で必死に洗い流してきたはずなのに、白日の下にさらされると、自分の毛穴から「夜の街」の匂いが染み出しているような気がして、絶えず自分の腕を抱え込むように歩いた。
目的地は、第一志望の看護専門学校。 校門をくぐると、そこには眩しいほどに真っ白な建物と、屈託のない笑顔で将来を語り合う同年代の少女たちがいた。
「実習、緊張するけど楽しみだよね」 「私、おばあちゃんが入院したとき、看護師さんがすごく優しくてさ」
彼女たちの言葉は、藤堂が言っていた「嘘をつくための言葉」でも、新菜の「生存のためのコイン」でもない。純粋な希望という、透明な成分だけでできていた。
「……まぶしい」
新菜は、小さく呟いて下を向いた。 実習室に入ると、そこには真っ白なベッドと、精巧に作られた看護用のマネキンが並んでいた。
「はい、それじゃあ実際に、手洗いの体験をしてみましょうか」
教員の穏やかな声。新菜は列に並ぶ。 自分の番が来た。新菜は蛇口をひねり、石鹸を手に取った。 看護における手洗いは、爪の間から手首、肘の近くまで、何段階もの工程を経て行われる。
(……落とさなきゃ。全部、落とさなきゃ)
新菜は、必死に手を擦り合わせた。 昨夜、佐藤の脂ぎった指先が触れた手の甲。 藤堂に「空っぽ」だと見透かされた、嘘を吐くための指先。 「さしすせそ」という呪文を振り撒き、男たちを欺いて手に入れた、汚れた札束。
「……新菜さん? そんなに強く擦らなくても大丈夫ですよ。皮膚を傷めてしまいます」
教員が心配そうに声をかける。新菜はハッとした。 自分の両手は赤く腫れ、皮膚がヒリついている。 それでも、爪の間に染み込んだ「夜の色」が、どうしても落ちないような気がして、新菜は水道から離れることができなかった。
「……汚れてるんです。私」
「え?」
「……いえ、なんでもありません」
新菜は濡れた手を、自分のスカートで乱暴に拭った。 白衣を着た学生スタッフが、優しく微笑みながらパンフレットを差し出してくる。その手は、清潔で、迷いがなくて、そして何より「真っ当な人生」の温もりに満ちていた。 その手に触れるのが怖くて、新菜は逃げるように校舎を飛び出した。
夕暮れの公園。ベンチに座り、バッグの中から昨夜の売上――三万円の入った封筒を取り出した。 この三枚の紙切れがあれば、来春の学費に一歩近づく。 けれど、この金が増えれば増えるほど、自分はあの真っ白な実習室から遠ざかっていくのではないか。 嘘で稼いだ金で、人の命に触れる資格なんて、私にあるんだろうか。
「……何やってるんだろ。私」
視界が滲む。ポタポタと、自分の膝に涙が落ちた。
その夜。「ルミナス」のフロアに立つ新菜には、いつもの精彩がなかった。
「……新菜ちゃん? 今日、ノリ悪くないか?」
指名客の男が、不機嫌そうにグラスを置いた。 新菜は、頭の中では「さ」を出さなきゃいけないと分かっているのに、喉が鉛を流し込まれたように重い。
「……さすがですね。お仕事、お忙しいんですか」
力なく放った言葉は、藤堂が言った通り、中身のない「エコー」だった。 客はつまらなそうにスマホを弄り始め、新菜はただ、溶けていく氷の音を聞いていた。
更衣室に戻ると、アキナが鏡越しに新菜を鋭く睨んだ。
「あんた、今日の接客は何? 幽霊が座ってるのかと思ったわよ」
「アキナさん……私、分からなくなっちゃいました。今日、学校に行って……あそこにいた子たちの手は、みんな綺麗だった。私の手は、嘘をついて、おじさんたちを騙して稼いだ金で汚れてて……」
新菜は、赤く腫れた自分の手を差し出した。
「こんな汚れた手のままで、私、白衣を着てもいいんでしょうか」
アキナは、吸いかけの加熱式タバコを置くと、新菜の前に立った。 そして、その腫れた手を、迷いなく自分の両手で包み込んだ。 アキナの手からは、いつもの強い香水の匂いではなく、ほんの少しだけ、使い古したハンドクリームの、人間らしい匂いがした。
「いい、新菜。よく聞きなさい。その手が汚れてるって感じるのは、あんたが『本気』だからよ」
「本気……?」
「適当に遊んで稼いでる奴は、自分の手が汚れてるなんて思わない。あんたは、泥の中に手を突っ込んで、必死に自分の未来を掴み取ろうとしてる。その熱を、汚れなんて安い言葉で片付けないで」
アキナは、新菜の目をじっと見つめた。
「白衣を着た連中の中に、あんたみたいに泥を舐めて、それでも誰かを救いたいって歯を食いしばってる奴がどれだけいる? 綺麗な場所から綺麗な言葉を吐くのは簡単よ。でも、暗闇を知ってる人間にしか救えない命だって、絶対にあるわ」
新菜は、アキナの言葉を、渇いたスポンジが水を吸うように聞き入った。 アキナの手の温かさが、赤く腫れた新菜の手の痛みを、静かに鎮めていく。
「……今は、その『汚れた手』で、しっかり稼ぎなさい。あんたの学費は、あんたがこの街で耐えた『誇り』そのものなんだから」
新菜は、小さく頷いた。 まだ、罪悪感が完全に消えたわけではない。 けれど、更衣室のロッカーに仕舞った、少し折れ曲がった看護学校のパンフレットが、暗闇の中で微かに光っているような気がした。
「……はい。頑張ります。……ありがとうございます、アキナさん」
新菜は、もう一度鏡に向かった。 浮いたファンデーションを抑え、リップを塗り直す。 目はまだ少し赤いけれど、そこには「生き抜く」と決めた少女の、鋭い光が戻っていた。
フロアに戻る扉を開ける。 喧騒と煙、欲望の渦。 新菜は、自分の手をぎゅっと握りしめた。 いつかこの手で、本当の誰かを救う日のために。
「……さしすせそ。……行こう」
新菜は、夜の海へと、再び漕ぎ出した。
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