【第7話】『コンクリートの匂い、心の指紋』

「……新菜ちゃん、最近なんか変わったよね。なんていうか、目が『ただ笑ってるだけ』じゃないっていうか」


 馴染みの客がそう言ってグラスを傾けるのを、新菜は柔らかな微笑みで受け流した。  藤堂との対話を経て、新菜の「さしすせそ」は変容していた。相手を転がすための記号ではなく、相手が何を大切にしているのかを探り当てるための、繊細なアンテナへと。


 そんな新菜の前に、その夜、一人の男が座った。  大手建設会社の役員だという。名は、岩田。  彼は席に着くなり、高級な葉巻の匂いを撒き散らし、不機嫌そうに周囲を睨みつけた。


「……君もどうせ、俺の役職や持ってる金の話を聞きたいんだろ。さっさと適当な相槌を打って、高い酒でもねだれよ」


 吐き捨てられた言葉。新菜の鼻腔を突くのは、葉巻の重たい煙と、男の体から滲み出す「誰にも理解されていない」という焦燥の匂いだった。


 新菜は、慌てなかった。グラスに汗をかいた水滴を、指先でそっと拭う。


「岩田様。……私は、岩田様のお仕事については、あまり詳しくありません」


「ほう、正直だな」


「でも、岩田様の手……。さっきから、テーブルの木目をなぞっていらっしゃいますよね。その触り方、すごく丁寧で。……何かをずっと、作ってこられた方の手だなって思いました」


 岩田の指が、ぴたりと止まった。  彼は自分の、節くれ立ち、いくつもの傷痕が消えずに残っている分厚い手を見つめた。


「……何が言いたい」


「岩田様が今、何を成し遂げたかではなく、岩田様が今日まで、何に『関心』を持って生きてこられたのか。それを、教えていただけませんか?」


 岩田は鼻で笑った。だが、その目はわずかに揺れていた。


「……関心、か。俺が一番好きなのは、現場のコンクリートが乾く瞬間の匂いだ。……そんなこと、この街の女に話して何になる」


「コンクリートが……乾く匂い」


 新菜は目を閉じた。  雨上がりのアスファルト。建設途中のビルの、ひんやりとした静寂。  彼女は、自分自身の「関心」を一旦脇に置き、岩田が見ている世界を、頭の中で必死に描こうとした。


「……それは、新しい何かが生まれる直前の、静かな音のような匂いでしょうか」


 岩田は、目を見開いた。  彼はゆっくりと、しかし饒舌に語り始めた。  橋を架けるときの、計算し尽くされた力学の美しさ。  自然の猛威に耐えうる「型」を作るための、狂気じみた情熱。  彼は自分の成功自慢ではなく、自分が心底愛している「土木という学問」への敬意を語っていた。


 新菜は、ただ「すごい」と繰り返すのをやめた。  岩田が使う専門用語の響きに耳を澄ませ、彼が何に感動しているのかを、自分の心の一部を差し出すようにして聞き入った。


「さすが、なんて言葉じゃ足りないですね。……岩田様がその橋を守るために、どれだけの夜をその匂いの中で過ごされたのか……想像するだけで、指先が熱くなる気がします」


 新菜の声は、深夜のフロアの喧騒を突き抜けて、岩田の耳に届いた。  岩田の表情から、険しさが消えていく。


「……驚いたな。君、俺の話を『聞いて』るんじゃない。『一緒に見て』るんだな」


「一緒に……見てる?」


「ああ。多くの人間は、俺の関心事そのものに興味があるフリをする。だが、君は違う。俺がその関心事に注いでいる『熱量』そのものに、関心を寄せてくれている。……それは、初めての経験だよ」


 岩田はそう言うと、初めて穏やかな顔で酒を口にした。  そのとき、新菜の胸の奥で、藤堂の言葉が蘇った。 『民俗学とは、誰かが何かを願った形跡を探る学問だ』


(そうだ。この人の『コンクリートの匂い』への愛は、この人が人生をかけて守りたかった『誰かの安全』や『自分の誇り』の形跡なんだ……)


「新菜ちゃん。……君は、いい看護師になるよ」


 不意に岩田が言った。新菜は驚いて顔を上げた。


「……なぜ、それを?」


「俺の関心に、これほどまで深く関心を寄せられる奴が、患者の苦しみに無関心でいられるはずがない。……君が見ているのは、俺の金じゃない。俺の生きてきた証拠だ」


 岩田はそう言って、優しく微笑んだ。  その瞬間、新菜は、相手の関心事に関心を寄せるということが、どれほど残酷で、どれほど尊い「ケア」であるかを知った。  それは自分自身を半分消して、相手の世界に飛び込む、勇気のいる行為だった。


 深夜。店を出ると、冷たい風が新菜の頬を打った。  新宿の街には、相変わらず無数のゴミが落ち、無数の言葉が捨てられている。  けれど新菜には、その一つ一つに、誰かが人生をかけて執着した「関心」の欠片がこびりついているように見えた。


「……お疲れ様。新菜、顔色が明るいわね」


 店から出てきたアキナが、新菜の横に並んだ。


「アキナさん。私、今日、誰かの人生の『匂い』を教えてもらいました」


「……匂い? また変なこと言ってる」


 アキナは呆れたように笑ったが、その目は新菜を優しく見守っていた。  新菜は、自分のカバンの中にあるノートに、また新しい一頁を刻んだ。


 ――相手の関心事に関心を寄せること。  それは、世界でたった一人のその人を、その人のままで「肯定」する、究極の型。


 新菜の歩む白衣への道は、夜の街の深い闇を通ることで、より鮮やかに、より確かなものへと変わっていく。  夜明けの光が、ビルの隙間から漏れ始めた。


【第7話】完

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