【第6話】『乾杯の輪、白衣の糸』
藤堂はゆっくりと、まるで壊れ物を置くようにノートをテーブルに戻した。
「……新菜君。君は今、とてつもない発見をしたよ」
彼の声は、これまでの冷徹な批評家のものとは明らかに違っていた。そこには、一人の学徒の成長を目の当たりにした者の、震えるような歓喜が混じっていた。
「医療……。そうか。看護とは、肉体の修理ではない。死の恐怖という『無秩序』の中に投げ出された人間を、清潔な白衣と、決まった所作という『聖なる型』で包み込み、日常という輪の中に繋ぎ止める儀式だ。……君は、夜の街の泥をこねて、白衣を織り上げる糸を見つけたんだね」
藤堂は、愛おしそうに空のグラスを見つめた。
「君が書いたあの部長という男。彼は乾杯が雑だと言って憤っていたが、本当は自分が『この世界の誰とも繋がっていない』ことに怯えていた。そこに君が『杯の由来』という小さな歴史の灯火(ともしび)を差し出した。……それはね、学問が最も気高く輝く瞬間だよ」
新菜の目から、不意に一粒の涙がこぼれ、ドレスのラメの上で砕けた。 悲しいからではない。 今まで「お金のため」「生きるため」と自分を殺してやってきた汚れた仕事が、巡り巡って、自分が目指す「看護師」という聖域と、一本の細い糸で繋がったことが、たまらなく救いだった。
「……無駄じゃなかったんですね。アキナさんに教わった『さしすせそ』も、私がここで無理に笑ってきた時間も」
「無駄なものか。この街のネオンも、酒の脂も、すべては人間が生きるための『業』の結晶だ。それを観察し、理解しようとした君の感性は、立派なフィールドワークだった。……新菜君、自信を持ちなさい。君の手はもう、単に金を数えるための手ではない。誰かの心の輪を閉じるための、温かい手だ」
藤堂は立ち上がり、静かにコートを羽織った。 今夜の彼は、新菜にとって「客」ですらなく、暗い夜の海を共に渡る導き手のようだった。
「さあ、明日は早いんだろう? 朝の光の中で、君の『型』を磨いてきなさい。……白衣が似合う女性になるよ、君は」
藤堂が去った後、店内の喧騒は相変わらず激しかった。 けれど、新菜にはもう、それがただの騒音には聞こえなかった。 グラスがぶつかる音。笑い声。怒鳴り声。 そのすべてが、誰かが誰かと繋がろうとする、不器用な「乾杯」の音のように聞こえていた。
更衣室に戻ると、アキナがタバコを吹かしながら新菜を待っていた。
「……新菜。先生、最後になんて?」
新菜は、大切にノートを抱きしめ、アキナに向かって真っ直ぐに答えた。
「『白衣が似合う』って、言ってくれました」
「……へぇ。あのおじさんも、たまには粋なこと言うじゃない」
アキナは少しだけ目を細めて笑うと、新菜の頭を乱暴に、けれど優しく撫でた。
夜明け前の新宿。 新菜は、冷たい夜風を頬に受けながら、一歩一歩踏みしめるように歩いた。 バッグの中には、藤堂が絶賛してくれたノートと、少しずつ溜まってきた学費の封筒。 夜の「さしすせそ」が、朝の白衣へと変わっていく。 その物語の続きを、新菜はもう、恐れてはいなかった。
【第6話】完
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