【第5話】接待で役立つ民俗学

【第5話】接待で役立つ民俗学


 グラスの縁に、指の脂がうっすら残っている。

 ウイスキーの琥珀色が、店内の間接照明を吸い込んで、ゆっくり揺れた。


「……でさ、最近の若いのは乾杯が下手だよな」


 向かいに座る部長は、少し赤い顔で言った。

 ネクタイを緩めた首元から、昼間の会議室とは違う匂いがする。

 スーツのウール、汗、そしてこの店特有の甘い香水。


「そうなんですか?」


 私はグラスを胸元で止めて、少し首を傾げる。

 ほんの一拍。

 早すぎても遅すぎてもだめな間。


「そうだよ。ほら、昔はさ――」


「昔、っていうと……」


 私は、続きを急がせない。


 カウンターの奥で氷が割れる音がした。

 カラン、という乾いた響き。

 それを合図に、部長の目が少し輝く。


「昔は、酒の席ってもっと……儀式みたいだったんだよ」


「儀式、ですか」


「そう。意味があった」


 部長はそう言って、グラスを置いた。

 木のテーブルに触れた瞬間、低い音が腹に落ちる。


「ねえ、部長」


 私は声を少しだけ落とす。


「乾杯って、どうして“杯”なんでしょうね」


「……ん?」


「コップじゃなくて、杯」


 部長は一瞬、言葉に詰まる。

 その沈黙を、私は壊さない。


「杯って、本当は――」


 私は、軽く笑った。


「分け合う器、なんですよね」


「分け合う?」


「はい。昔は一つの杯を回したり、注ぎ合ったりして……

 “この場にいる全員は同じ輪の中ですよ”って確認するためのものだったらしいです」


 部長は、ほう、と小さく息を吐いた。


「民俗学、ってやつですか」


「ええ。人がどうやって安心してきたか、の学問です」


 私はグラスを軽く揺らす。

 氷が、さっきより少し溶けている。


「だから、乾杯が雑だと……」


「仲間に入れられてない感じがする」


 部長が、先に言った。


 その瞬間、私は心の中で小さく頷く。


「さすがです」


「……なるほどなあ」


 部長は、天井を見上げた。

 照明の光が、瞳に滲む。


「そう考えるとさ。最近の若いのが悪いんじゃないな。

 俺たちが、輪を作れてないのか」


「そうかもしれませんね」


 私は、否定もしない。

 肯定もしすぎない。


 この人はいま、自分で答えに辿り着いたところだから。


「なあ」


 部長が、少し声を低くする。


「君、こういう話……どこで覚えた?」


「祖母です」


「おばあちゃん?」


「ええ。田舎の人で」


 嘘ではない。

 でも全部でもない。


「集落の寄り合いとか、祭りとか……

 人が集まる場所には、必ず“型”があるって教わりました」


「型、か」


「型があるから、安心できるんです。

 何を話していいかわからなくても」


 部長は、しばらく黙っていた。


 遠くで誰かが笑う声。

 グラスが触れ合う音。

 この店の夜が、少しだけ柔らかくなる。


「……今日の接待、助かったよ」


「いえ」


 私は、微笑む。


「私、何もしてません」


「いや」


 部長は、ゆっくりとグラスを持ち上げた。


「ちゃんと“迎え入れられた”気がした」


 その言葉が、胸の奥に残る。


「じゃあ」


 私は、そっとグラスを合わせる。


「もう一度、乾杯しましょうか」


「おう」


 今度は、音が違った。

 カチン、ではなく、コツン。

 小さくて、丸い音。


 輪が、閉じた音だった。


 ――接待で役立つ民俗学。

 それは、相手を説得するための知識じゃない。

 「あなたは、ここにいていい」と伝えるための技術だ。


 ネオンの外で、夜風が少し冷たくなっていた。


***


新菜は自分で書いた小説を藤堂に見せた。

藤堂は、新菜のノートの最後の一行を視線でなぞると、ゆっくりと表紙を閉じた。  パタン、と、柔らかな紙が重なる音。それが合図のように、二人の間に漂っていた濃密な沈黙が解けていく。


 藤堂はすぐに口を開かなかった。  ただ、眼鏡を外して眉間を指で揉み、それから、深く、重い溜息を一つ吐いた。その溜息は、新菜の書いた言葉を胃の底に沈め、咀嚼(そしゃく)しようとしている儀式のように見えた。


「……君。これは、君の『本音』か。それとも、私を喜ばせるための『フィクション』か」


 藤堂の問いは、新菜の心臓の鼓動を早めさせた。  彼は「読んだ」という事実には触れず、いきなり言葉の鮮度を問うてきたのだ。


「……本音、です。でも、藤堂さんに言われるまで、そんなふうに考えたこともありませんでした。自分が普段、何気なく使っていた言葉に、あんなに深い意味が隠されていたなんて」


 新菜は、ドレスの膝の上で指を絡めた。  藤堂は、再びノートに手を置き、愛おしそうにその表面を撫でた。


「いいか、新菜君。この物語の中の『私』は、部長という男に単なる知識を授けたのではない。君が差し出したのは、数千年前から続く『共同体』という名の温かい輪だ」


 藤堂の瞳は、新菜を「キャバ嬢」としてではなく、一つの新しい視点を持った「表現者」として捉えていた。


「『輪が、閉じた音だった』。……この一文を、君が自分の指で書いたという事実に価値がある。君は、夜の街の喧騒の中で、バラバラに壊れかけていた人間の心を、民俗学という『型』を使って繋ぎ止めてみせたんだよ」


 新菜は、肺の空気が震えるのを感じた。 「さしすせそ」という嘘の武器。  でも、その裏側に潜ませた「型」があれば、嘘を「救い」に変えることができる。


「……藤堂さん。私、看護師になりたいって思っていることも、同じことなのかなって思いました」


「ほう……?」


「病気で不安な人に、決まった手順で、決まった白衣で、身体に触れる。それも、一つの『型』なんじゃないかって。それで、その人を安心させてあげられるなら……私のしてきたことは、無駄じゃないって思ってもいいんでしょうか」


 藤堂は一瞬、言葉を失ったように目を見開いた。  それから、これまでにない穏やかな声で、独り言のように呟いた。


「……素晴らしい。医療もまた、生と死の境界線で人が人を繋ぎ止めるための、最も切実な儀礼だからね」

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