【第4話】『巫女(みこ)の嘘、神託のさしすせそ』

藤堂は、新菜のその問いを聞いた瞬間、琥珀色の液体が揺れるグラスをピタリと止めた。


「ゴミ、か。……ふふ、あはははは!」


短く、乾いた笑い声。それは嘲笑というよりも、予想外の角度から飛んできた礫(つぶて)に驚いたような、愉快そうな響きだった。


「新菜君。君は今、私がゴミを拾い集めているように見えたのか。あるいは、この街の清掃美化活動について講釈を垂れる聖人君子にでも見えたか?」


「……だって、民俗学って、当たり前の暮らしを知る学問なんですよね? なら、日本人が当たり前にゴミを捨てないこととか、そういうの、藤堂さんは調べてるんじゃないんですか」


新菜はムキになって言い返した。 少しでも、藤堂の土俵に上がりたかった。彼が「標本」としてではなく「人間」として自分を見ているのだと、証明したかったのだ。


藤堂は、笑いの余韻を含んだまま、ゆっくりと身を乗り出した。 彼の体から、書物の古い紙の匂いと、スモーキーなウイスキーの香りが混ざり合って漂ってくる。それは、この店に充満する安っぽい香水の霧を、一瞬で切り裂くような重厚な気配だった。


「残念ながら、私が興味があるのはゴミそのものではない。だが、君の視点は面白い。ゴミが少ない、というのは一つの『結果』だ。民俗学が追いかけるのは、その背景にある『畏れ』や『記憶』なんだよ」


藤堂は、テーブルの上に置かれたクリスタルの灰皿を指差した。


「例えば、この街のゴミ。夜が明ければ清掃車が来て、すべては『なかったこと』にされる。だが、ゴミと一緒に、ここで吐き出されたため息や、誰にも言えなかった呪詛、あるいは、君が今しがた飲み込んだ本音……そういう、文献には残らない『庶民の感情』が、この街の地面には堆積している」


藤堂の指先が、テーブルの表面をなぞる。


「柳田國男は、遠野の山奥で語り継がれる奇妙な話を集めた。それはただの迷信ではなく、厳しい自然の中で生きる人々が、自分たちの生を肯定するために必要とした『物語』だった。私が今、この新宿のキャバクラに座っているのも同じ理由だ。君たちが客に投げかける『さしすせそ』という呪文。それは、現代の都市における一種の『儀礼』ではないのか?」


「儀礼……。お祭りとか、そういうものと同じだって言うんですか?」


「そうだ。男たちはここで、金を払って『自分は価値のある人間だ』という神託を授かりに来る。君は、その神託を告げる巫女(みこ)だ。そこには論理も真実も必要ない。ただ、定型化された言葉のやり取り……つまり『さしすせそ』という伝統芸能があれば成立する」


藤堂の言葉は、新菜の胸を深く抉った。 伝統芸能。 自分が必死に、震えながら繰り出していた言葉を、彼はそんなふうに解釈している。


「……藤堂さんは、私たちをバカにしてるんですか。巫女だなんて。私は、ただ、お金が欲しいだけです。生きるために、必死で嘘をついてるだけなんです」


新菜の声は、怒りで少し震えた。隣のテーブルからは「すごい! さすが!」という別のキャストの甲高い声が聞こえてくる。それが今は、不気味な読経のように聞こえて、新菜は耳を塞ぎたくなった。


「バカになどしていない。むしろ逆だ。……君。なぜお正月にお雑煮を食べるか知っているかね?」


「え……? 縁起がいいから、じゃなくて?」


「お雑煮はね、神様に供えた餅を、人間が分かち合って食べることで、神の力を体内に取り込む儀式だったと言われている。当たり前だと思っている習慣の裏には、必ず『誰かが何かを願った形跡』がある。君がつく嘘も、客が買う虚栄も、その根源には『孤独から逃れたい』という切実な願いがある。……民俗学とは、その『願い』の正体を、足元の文化から探る学問なんだよ」


藤堂は、ふっと目を細めた。その視線は、新菜を通り越して、彼女の背後にある、目に見えない巨大な「孤独」を見つめているようだった。


「君が言う『ゴミが少ない日本』というのも、誰かが誰かの目を気にし、共有される『恥』の感覚を守り続けてきた結果かもしれない。それは文献には書かれない、日本人の血に流れる『物語』だ。……新菜君。君は、自分の物語を、ゴミと一緒に捨ててしまうつもりかね?」


「私の……物語」


「そうだ。君がなぜ看護師を目指し、なぜこの街で『さしすせそ』を盾にして立っているのか。その過程で君が感じた痛み、悔しさ、喉の奥で消えた言葉。……それこそが、私が知りたい『生きた民俗』だ。記号の向こう側にある、君という人間の歴史だよ」


新菜の視界が、急に歪んだ。 藤堂の言葉は冷たい刃のようでありながら、同時に、氷点下で凍えそうになっていた新菜に差し出された、唯一の毛布のようでもあった。


「……藤堂さん。私、民俗学なんて、ただの古い話だと思ってました」


「古い話ではない。今、この瞬間、君が流そうとしているその涙も、民俗学の範疇だ。なぜなら、その涙は君の『生活』から生まれた本物だからだ」


新菜は、慌てて手の甲で涙を拭った。 化粧が崩れる。アキナに怒られる。そんな些細な心配すら、今は遠い。


「……藤堂さん。次にいらしたときは、私、ゴミの話じゃない話、持っておきます。……私が、お正月に施設で食べてた、あんまり美味しくないお雑煮の話とか」


「……ほう。それは楽しみだ」


藤堂は、初めて新菜に向かって、柔らかく、けれど年相応の重みを持った微笑みを向けた。 彼は残りのウイスキーを一気に飲み干すと、音を立てずに席を立った。


「……新菜君。君はもう、空っぽな標本ではないよ。自分の痛みを言葉にしようとした瞬間、君の物語は動き始めたんだ」


藤堂が去った後、新菜はその場に立ち尽くしていた。 フロアの空気は相変わらず不健康で、煙たくて、欲望にまみれている。 けれど、新菜の心には、先ほどまでの「虚無感」とは違う、何かが静かに熱を持っているのを感じた。


更衣室に戻ると、アキナが鏡の前で髪を解いていた。


「……新菜。先生、機嫌よく帰られたわよ。あんた、何を喋ったの?」


新菜は、自分の赤くなった目を見つめ、少しだけ誇らしげに答えた。


「お雑煮の話です。……あと、ゴミの話」


「は? あんた、本当に変な子ね」


アキナは呆れたように笑ったが、その目は新菜の変化を見逃していなかった。


新菜は、更衣室の窓から外を見た。 眠らない街、新宿。 そこら中に捨てられたゴミや、吐き捨てられた言葉。 けれど、藤堂が言った通り、そのすべてに「誰かの願い」がこびりついているのだとしたら。


(……私の『さしすせそ』も、いつか誰かの救いになれるのかな)


新菜は、自分の手をぎゅっと握りしめた。 それは、記号ではない。 明日を、そしていつか白衣を着る未来を掴み取るための、確かな血の通った手のひらだった。


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