【第3話】『剥製(はくせい)と対話』
更衣室の冷たいタイルに背を預け、新菜は藤堂に投げつけられた言葉を反芻していた。 「空虚なエコー」 そのフレーズが、耳の奥で鋭い耳鳴りのように響き続けている。
「……アキナさん。藤堂さんって、何者なんですか」
新菜は、隣でタバコの箱を弄んでいるアキナに縋るように問いかけた。アキナは細い指先で一本抜き取ると、火をつけずにその香りを深く吸い込んだ。
「藤堂先生?……あの人は、民俗学の教授。この街のネオンの下に埋もれた『消えゆく言葉』を集めてる変態よ。あの人にとって、この店は研究室みたいなもの。あんたのさしすせそが通用しなかったのは、あんたが彼にとって『読み飽きた教科書』だったから」
「読み飽きた……」
「そう。彼は、人間の生々しい矛盾や、吐き捨てられた本音、剥き出しの業を愛してるの。綺麗なだけの模範解答には、一円の価値も感じない人よ」
新菜は拳を握りしめた。 敵を知らなければ、同じ辱めを繰り返すだけだ。藤堂が何を愛し、何を憎み、何を求めてこの喧騒に座っているのか。それを知らないままでは、一生「機械」のままだ。
「もう一度、行かせてください。藤堂さんのところへ」
「……今のあんたの顔、いいわよ。機械が壊れた後の、不格好な人間の顔。行っておいで」
フロアに戻ると、藤堂は相変わらず琥珀色のグラスを揺らしていた。チェンジでついた別のキャストが、必死に「すごーい! センスいい!」と黄色い声を上げているが、藤堂の目は死んだ魚のように濁っている。
新菜は、逃げ出したくなる足を叱咤して、そのテーブルへ歩み寄った。
「藤堂様。……戻りしました」
隣のキャストが怪訝な顔をしたが、藤堂は視線だけを新菜に向けた。
「また君か。エコーの調整は済んだのかね?」
「いいえ。……調整は諦めました。私は、藤堂さんの望む言葉は持っていません。でも、藤堂さんがこの街で何を探しているのか、それを知りたいと思いました」
新菜の声は震えていたが、真っ直ぐに藤堂の瞳を捉えた。藤堂はわずかに眉を動かし、隣のキャストに席を外すよう手で示した。
「……面白い。私の興味を知りたいと? 学問的な好奇心か、それともただの営業努力か」
「どちらでもありません。……ただ、私が『空っぽ』だと言われたことが、どうしても悔しかったからです。藤堂さんは、この街の汚れた空気を吸いながら、何を美しいと思っているんですか?」
藤堂は初めて、グラスをテーブルに置いた。氷がぶつかり、カランと澄んだ音が響く。
「……私はね、沈黙が好きだ」
「沈黙、ですか? こんなにうるさい場所で?」
「ああ。言葉というのは、嘘をつくためにある。だが、沈黙は嘘をつけない。この街には二種類の沈黙がある。絶望して喉を詰まらせた者の沈黙と、すべてを諦めて虚飾を脱ぎ捨てた者の沈黙だ」
藤堂は、フロアの喧騒を指差した。
「あそこで笑っている男たちを見てごらん。彼らは、自分の孤独を埋めるために言葉を浪費している。だが、君。君の『さしすせそ』の裏側には、別の沈黙があった。それは、何かを必死に守ろうとして、声を殺している者の沈黙だ。私はね、その沈黙の『正体』に興味があるんだよ」
新菜は息を呑んだ。 藤堂の言葉は、まるでメスのように新菜の胸を切り開き、奥底に隠していた「ひだまり園」の冷たい廊下や、一人で泣いた夜の記憶を暴き出そうとしている。
「……藤堂さんは、研究のために人を傷つけるんですか」
「傷つける? 滅相もない。私はただ、標本を観察しているだけだ。だが、標本が自ら動き出し、自分の意志で語り始めるなら、それは学問を超えた『対話』になる。……君。その看護学校のパンフレット、随分と使い込まれているね」
新菜は、ドレスの脇に隠していたバッグの中身が見透かされたことに驚き、思わず肩を竦めた。
「……なぜ、それを」
「君の手だよ。さっきから、指先がページを捲るような動きをしている。指の腹のタコ、ペンを握り込み、必死に知識を詰め込んでいる者の手だ。……その手が、なぜ夜の街で偽りの言葉を振り撒いている?」
新菜の視界が、急に熱くなった。 藤堂は新菜を否定していたのではない。新菜が自分を偽っていること、その「矛盾」そのものを観察していたのだ。
「……生きるためです。ここしか、道がなかったから。誰も、助けてくれなかったから……! 私にとっての言葉は、会話を楽しむためのものじゃありません。未来を買うための、ただの『コイン』なんです」
剥き出しの言葉が、喉から溢れ出した。 「さしすせそ」という檻を突き破って、新菜の「本当の声」がフロアに響く。
藤堂は、それまでの冷徹な表情を崩し、ふっと短く笑った。
「……いい沈黙の破り方だ。不器用で、泥臭くて、そして何より『君』の声だ」
藤堂は胸ポケットから万年筆を取り出し、コースターの裏に何かを書きつけた。
「これは、私が書いた論文のタイトルだ。暇な時に図書館で引いてみるといい。……『都市における偽装の言語と、その裏側にある生存本能』。君を見て、少し書き直したくなったよ」
藤堂は立ち上がり、伝票に多めのチップを挟んだ。
「……藤堂さん、もう行かれるんですか」
「ああ。今日はいいフィールドワークになった。君。次に会うときは、その『コイン』としての言葉ではなく、君が看護学校で学んだ『命の言葉』を聞かせてもらいたいものだ」
藤堂が去った後、新菜の手元には、彼が飲み残したウイスキーの独特なピートの香りが残っていた。
更衣室に戻ると、アキナが壁に寄りかかって待っていた。
「……どうだった? 民俗学者の授業は」
「……厳しかったです。でも、少しだけ分かった気がします。私が隠していたものは、隠せてなんかいなかったんだって」
新菜は、藤堂が書いたコースターを握りしめた。 「さしすせそ」が通用しない相手がいる。それは恐怖だが、同時に、偽りの自分を突き抜けて「本当の自分」を見つけてくれる人がいるという、微かな救いでもあった。
「アキナさん。私、もっと勉強します。言葉も、看護も」
「いいわよ。でも、あんまりあのおじさんに感化されすぎないことね。理屈っぽい男は、疲れるだけだから」
アキナは笑って、新菜の背中をパシッと叩いた。 新菜は、もう一度鏡を見る。 そこには、さっきまでよりも少しだけ、輪郭のはっきりした自分の顔があった。
夜の街の喧騒が、少しだけ遠く聞こえた。 新菜は、初めて自分から「ありがとうございます」と心の中で呟いた。それは誰に向けたものでもない、一歩踏み出した自分自身への言葉だった。
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