【第3話】通用しない男
「失礼します」
新菜は、いつものように三センチの角度でお辞儀をし、隣に滑り込んだ。 今夜の客は、ツイードのジャケットを羽織った初老の男だった。藤堂というその男は、騒がしいフロアの中で、そこだけ時間が止まったような静寂を纏っている。
「……藤堂様ですね。お会いできて光栄です」
新菜は、アキナから教わった「さしすせそ」の引き出しを、脳内で素早く整理した。藤堂は、手元のウイスキーグラスを小さく揺らし、琥珀色の液体を見つめたまま、新菜の方を見ようともしない。
「光栄、か。初対面の相手に使うには、いささか重量の足りない言葉だね」
低く、理知的な声。新菜は一瞬、心臓を冷たい指でなでられたような気がした。けれど、すぐに営業用の笑顔を貼り直す。
「さすがですね。言葉の重みを大切にされているのが、一言で伝わってきます」
まずは「さ」。肯定の先制攻撃。 たいていの男は、これで鼻の下を伸ばし、自分の「こだわり」について饒舌になる。しかし、藤堂はゆっくりと顔を上げると、彫刻のような冷ややかな目で新菜を射抜いた。
「君。今、何を考えてその言葉を吐いた?」
「え……?」
「私の発言のどこが、どう『さすが』なのか。論理的に説明してほしい。それができないなら、その相槌はただの騒音だ」
新菜の背中に、嫌な汗が伝った。シャンデリアの光が急に眩しく、喉がカラカラに乾く。 (……落ち着け。次は『し』だ。知らないふりをして、相手に喋らせるんだ)
「すみません、私、不勉強で……。藤堂さんのおっしゃること、もっと詳しく教えていただけますか? しらなかったです、言葉にそんな深い意味があるなんて」
必死に繰り出した「し」。 しかし、藤堂は鼻で笑うことすらせず、深い溜息をついた。
「知らない、と言えば許されると思っているのか。君は、自分の無知を武器にして、相手に思考のコストを押し付けているだけだ。……中身のない空論だよ、君の会話は」
「空論……」
「そうだ。さっきから聞いていると、君の言葉には『君』が不在だ。記号としての肯定。反射としての称賛。君が今言ったことは、AIでも、あるいは学習させた九官鳥でも代替が可能だ。……私は、そんな機械と酒を飲みに来たわけじゃない」
藤堂はグラスをテーブルに置いた。コン、という乾いた音が、新菜のプライドを粉々に砕く音のように聞こえた。
周りのテーブルからは、下卑た笑い声や、「すごい!」「センスいい!」という安っぽい感嘆の声が響いている。今まで自分を守ってくれた最強の盾が、ここではただの薄い紙切れのように頼りない。
「……私は、お客様に楽しく過ごしていただきたくて」
「楽しさとは、互いの輪郭がぶつかり合う摩擦から生まれるものだ。君には、ぶつけるべき自分の輪郭がないのか? 君自身の考えを聞かせてほしい。この街をどう思う? なぜそんな安っぽいドレスを着て、偽りの名前で笑っている?」
「それは……」
新菜の頭の中が真っ白になる。 看護学校に行きたいこと。施設で育ったこと。お金がないこと。 そんな「本当のこと」を言えば、この完璧な男にどう裁かれるか分からない。恐怖で指先が震え、ボトルのラベルを剥がしそうになる。
「……そうなんだ。藤堂さんは、厳しいんですね」
追い詰められて出た、最後の「そ」。 藤堂の目が、氷のように冷たくなった。
「……もういい。席を外してくれ。これ以上、君の空虚なエコーを聞くのは苦痛だ」
「藤堂様、あの……」
「マネージャーを。チェンジだ」
突き放すような言葉。新菜は、自分がこの場から消えてしまいたい衝動に駆られた。 立ち上がろうとした足がもつれ、テーブルに膝を打つ。痛みすら感じないほど、恥辱と無力感で全身が支配されていた。
逃げるように更衣室へ駆け込むと、そこにはアキナが鏡の前でリップを塗り直していた。
「……早かったわね。藤堂先生、お気に召さなかった?」
新菜は返事ができなかった。洗面台に手をつき、荒い呼吸を整える。 鏡に映る自分は、化粧が浮き、目は泳ぎ、アキナが言った「ただのガラス板」そのものだった。
「……私、何も言えませんでした。『さしすせそ』が通じないって分かった瞬間、自分が空っぽだって、思い知らされて」
新菜の声は震え、涙が溢れそうになるのを必死でこらえた。
「『君自身はどう思うんだ』って聞かれて……何も、答えられなかった。私の中に、私がいなかったんです」
アキナはリップを置くと、新菜の隣に立ち、鏡の中の彼女をじっと見つめた。
「挫折ね。おめでとう、新菜」
「……おめでとう?」
「そうよ。記号で人を操れるなんて思い上がってたあんたが、鼻っ柱を折られた。それは、あんたが『人間』として客に向き合わざるを得なくなったってことよ」
アキナは新菜の肩に手を置いた。
「藤堂先生はね、嘘を見抜くのが仕事の学者なの。あの人が求めてるのは、綺麗な反射じゃない。泥臭くても、不格好でもいいから、そこに生きてる人間の『温度』よ。……あんた、看護師になりたいんでしょ?」
「……はい」
「患者が苦しんでいるときに、記号の『そうなんだ』で済ませるつもり? 相手の深いところへ踏み込むには、あんた自身が自分の言葉を掘り起こさなきゃいけないの。……怖がってちゃ、何も救えないわよ」
新菜は、自分の震える手を見つめた。 藤堂に言われた「君の不在」。 それは、自分を護るために、自分が一番自分をないがしろにしていた証拠だった。
フロアに戻る勇気は、まだない。 けれど、新菜は更衣室の隅に置いていた自分のバッグから、使い古された単語帳を取り出した。看護学校の受験用。そこには、新菜が「自分の未来」のために刻んできた、嘘のない努力が並んでいる。
(私は、空っぽじゃない。……ただ、見せるのが怖かっただけだ)
新菜は、剥がれかけたメイクを丁寧に直した。 藤堂はもう別のキャストと話しているだろう。けれど、次に彼が、あるいは彼のような「本物を求める客」が来たとき、自分はどんな言葉を差し出せるだろうか。
「さしすせそ」という五文字の檻の中から、一歩外へ。 新菜の戦いは、本当の意味でここから始まろうとしていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます