【第2話】無傷の代償

「新菜ちゃん、本当に聞き上手だね。癒やされるよ」


目の前の男が、とろけたような顔でウイスキーを煽る。新菜は、自分の頬が「営業用の角度」で固定されているのを感じていた。口角を数ミリ上げ、目は優しく細める。鏡の前で何度も練習した、最も効率よく客の財布を緩める表情だ。


「そうなんだ……。そんなに大変なプロジェクトを任されていたんですね。私、お話を聞いているだけで胸が熱くなっちゃいました」


心の中には、何の感慨もない。ただ、アキナに教わった「そ」の札を、タイミングよく差し出しただけだ。


「だろう? 部下はわかってくれないけど、君だけは特別だ。……もう一本、開けようか」


男がボーイを呼ぶ。その瞬間、新菜の脳内ではレジが鳴るような音がした。 指名料、ドリンクバック。看護学校の学費という「未来」が、少しずつ形を成していく。


けれど、男が語る「情熱的な仕事の話」が耳を通り過ぎていくたび、新菜の心はどんどん冷えていく。自分を透明な鏡にして、相手の言葉を反射する。それは、相手を肯定しているようでいて、その実、相手の存在を徹底的に無視する作業だった。


「お疲れ様。今日も一番乗りで上がれるわね」


更衣室に戻ると、アキナが鏡越しに新菜を見た。新菜の売上は、入店一ヶ月とは思えない速度で伸びていた。


「ありがとうございます。……でも、なんだか最近、疲れが取れなくて」


新菜は、きつく締め付けていたドレスのファスナーを下ろした。解放されたはずの肺が、なぜか上手く空気を吸い込まない。


「言葉が、喉に張り付いている感じがするんです。さしすせそ、って言うたびに、自分の本当の声が奥の方へ押し流されていくみたいで」


新菜は、私服のパーカーに着替えながら、鏡に映る自分を見つめた。 そこには、さっきまで客に向けていた「微笑みの残骸」がへばりついている。感情が動いていないのに、表情だけが勝手に動く。


「……新菜。あんた、鏡を演じすぎよ」


アキナがタバコの煙をゆっくりと吐き出し、鏡の中にいる新菜の目を射抜いた。


「鏡はね、自分を消さなきゃいけない。でも、ずっと消し続けていると、いつか鏡の中に何も映らなくなるわよ。自分の色を忘れた鏡なんて、ただのガラス板。割れたら最後、何も残らないわ」


「色……?」


「そう。客の言葉を反射するだけの『さしすせそ』は無敵よ。傷つかなくて済むもの。でも、無傷でいる代償は、あんた自身の『心』が死んでいくことなのよ。あんた、最近自分のことで笑った? 自分のことで怒った?」


新菜は絶句した。 ここ数週間、新菜が口にした言葉のすべては、誰かのための返答だった。 朝、コンビニでパンを買うときも「ありがとうございます」という言葉にすら、客を不快にさせないための「営業用のトーン」が混ざるようになっていた。


「私……自分が何を好きだったか、思い出せなくなってきてます」


新菜の声は、カサカサに乾いていた。


「施設の頃は、もっと……もっと、何かに怒ってた気がするんです。運命とか、大人とか。でも今は、何を聞いても『そうなんだ』で終わらせてしまう。それが一番楽だから」


アキナは、吸い殻を灰皿に押し付けると、新菜の隣に座った。派手な香水の匂いの奥に、かすかな焦げた匂いが混ざる。


「……いい? この仕事は、心を切り売りする仕事じゃない。心を『隠す』仕事よ。でも、隠す場所を忘れたらおしまい。あんたが本当に守りたいものは、その『さしすせそ』の裏側にちゃんと隠しておきなさい」


アキナの手が、新菜の冷え切った手に重なった。 「明日、休みでしょ。どこか行きなさい。夜の匂いがしない場所へ」


翌日。新菜は昼過ぎに目を覚まし、逃げるようにアパートを出た。 向かったのは、繁華街から離れた場所にある、緑の多い公園だった。


ベンチに座り、ただ通り過ぎる人々を眺める。 散歩をする老人、駆け回る子供。そこには「さしすせそ」を求めてくる男たちはいない。


不意に、隣のベンチに座っていた小さな女の子が、転んで膝をすりむいた。 女の子は、顔を真っ赤にして、大きな声で泣き出した。


「痛い! 痛いよぉ!」


その剥き出しの感情に、新菜は心臓を突かれたような衝撃を受けた。 誰の目も気にせず、計算もせず、ただ「痛い」と叫ぶ。 その声は、新菜がずっと喉の奥に閉じ込めていた叫びのようにも聞こえた。


助けに駆け寄った母親が、女の子を抱きしめる。 「痛かったね。よしよし」


新菜は、その光景をぼうっと眺めていた。 (私は……痛いって、言ったことがあったかな)


施設を出る時も、初めてドレスを着た時も、客に蔑まれた時も。 自分を無傷に保つために、常に「さしすせそ」という盾を構えてきた。 けれど、盾の内側にいる自分は、もう呼吸の仕方を忘れかけていた。


気がつくと、新菜の頬を一筋の涙が伝っていた。 それは、客の前で流す「可哀想な女の子」を演じるための涙ではない。 熱くて、苦くて、自分だけの、本当の涙だった。


「……いたい。……苦しい」


小さく呟いてみる。その言葉は、「さしすせそ」のどの文字にも当てはまらなかった。 けれど、その言葉を口にした瞬間、止まっていた肺がようやく大きく膨らんだ。


その日の帰り道。新菜は駅前の書店に立ち寄った。 買ったのは、看護学校の受験対策問題集。 レジで店員に「袋はいりません」と言ったとき、その声は少しだけ震えていたけれど、紛れもなく「新菜自身」のトーンだった。


夜、再び「ルミナス」へ向かう。 ネオンの光は相変わらず嘘くさく、街は欲望の匂いで満ちている。


更衣室でアキナと目が合う。 アキナは新菜の顔を見て、少しだけ口角を上げた。


「……少しは色、戻ったみたいね」


「はい。……たぶん」


新菜は再び、ピンク色のドレスに身を包む。 これからまた、何百回、何千回と「さしすせそ」を繰り返すだろう。 けれど、もう自分を空っぽにはしない。 鏡の裏側に、誰にも触れさせない「自分だけの痛み」を隠して。


フロアから、客の笑い声が聞こえてくる。 新菜は深く息を吸い込み、戦場へと続く扉を開けた。


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