『夜のさしすせそ、朝の白衣』

春秋花壇

【第1話】魔法の呪文

「……帰り道なんて、最初からなかった」


歌舞伎町、靖国通り。 新菜は、安物のリクルートスーツの裾をぎゅっと握りしめた。 鼻をつくのは、焦げた排気ガスと、どこかから漂う甘ったるい香水の匂い。


施設を出る際、園長から手渡されたのは、薄い封筒に入ったわずかな支度金と「頑張りなさい」という、実体のない言葉だけだった。 看護学校のパンフレットに記された『入学金・授業料:120万円』という数字。 それは、コンビニの時給で計算すれば、気が遠くなるほどの「未来の値段」だった。


雑居ビルの地下へと続く階段は、まるで巨大な怪物の喉のようだ。 湿った空気と、重低音の振動が肌を震わせる。 「キャバクラ、ルミナス」 看板の文字が、新菜の瞳に突き刺さるように光った。


更衣室の空気は、さらに濃密だった。 ヘアスプレーの細かな霧が舞い、高級な化粧品と煙草の匂いが混ざり合って、胸の奥がチリチリと焼ける。


「……似合ってないわね。顔、真っ白よ」


背後から声をかけられ、新菜は肩を跳ねさせた。 そこにいたのは、銀色のドレスを纏った女、アキナだった。 彼女が通るだけで、空気がぴりりと引き締まる。 アキナは新菜の前に立ち、値踏みするようにその顔を覗き込んだ。


「名前は?」 「……新菜、です」 「新菜ね。ここに来た理由、一応聞いといてあげる」 「お金、です。看護学校に……どうしても行きたくて。誰も助けてくれないから、自分で稼ぐしかなくて」


新菜の言葉は、震えていたが、底の方に硬い意志が沈んでいた。 アキナはふん、と短く鼻を鳴らすと、鏡の前に新菜を座らせた。


「いい? 看護師様。あんたがこれから診るのは、病気じゃなくて、男たちの『肥大化した自尊心』よ。あいつらは、金で見せかけの全能感を買いに来るの。そのためにはね、あんた自身は『空っぽ』でいい。ううん、空っぽじゃなきゃいけないの」


アキナは、鏡の表面に指先で、なぞるように文字を書く仕草をした。


「武器をあげるわ。『さ・し・す・せ・そ』。これだけでいい。余計な感情はゴミ箱に捨てて、この五文字を順番に投げなさい」


「さしすせそ……?」


「**『さ』すがですね。『し』らなかった。『す』ごい。『せ』ンスいいですね。『そ』**うなんだ」


アキナは、新菜の首筋に冷たい指を添えた。


「これは魔法じゃない。あんたを『透明な鏡』にするための、ただの記号よ。客が言ったことを、この五文字で反射させるの。男はね、自分の言葉が綺麗に反射されると、それだけで自分が特別な人間になったと錯覚する。その錯覚の対価が、あんたの学費になるの。……分かった?」


新菜は、乾いた喉を鳴らし、鏡の中の自分を見つめた。 貸し出されたピンク色のドレスは、肩が露出しすぎていて心細い。 けれど、この五文字を掴んでいなければ、暗闇に飲み込まれてしまいそうだった。


「……はい。さしすせそ。覚えました」


フロアに出ると、眩いシャンデリアの光が、新菜の視界を真っ白に染めた。 案内されたテーブルには、脂ぎった顔をした中年男性・佐藤が座っていた。 彼は新菜のぎこちないお辞儀を見ると、鼻で笑った。


「なんだ、ずいぶん幼いのが来たな。お姉ちゃん、学生? 俺がどんな仕事してるか分かるか?」


佐藤は、これ見よがしに高級時計をテーブルに置いた。 新菜の心臓が、耳の奥でドクドクと警鐘を鳴らす。 (『さ』だ。最初は『さ』……!)


「……さすがですね。その時計、私でも分かるくらい、すごく価値があるものだって伝わってきます」


新菜の声は、自分でも驚くほど上擦っていた。 けれど、佐藤の表情が、一瞬で緩むのを新菜は見逃さなかった。


「ははっ、分かるか。これは世界に数本しかない限定モデルでな。俺が去年、大きなプロジェクトを成功させた時に自分への褒美で買ったんだ。このプロジェクトっていうのがまた、業界じゃ伝説になっててさ……」


そこからは、濁流のような自慢話だった。 かつての自分なら「自慢ばかりで退屈な人だ」と心を閉ざしていただろう。 けれど今の新菜は、アキナの言葉通り、自分を「透明な鏡」に徹させた。


「えっ、知らなかったです! そんな大きなことを一人で……」 「すごい! 普通の人には真似できないですよ」 「その考え方、センスがいいっていうか、選ばれた人だけが持ってるものですね」 「そうなんだ……そんな苦労があったから、今の佐藤さんがあるんですね」


新菜が言葉を投げるたび、佐藤の顔は赤らみ、声は大きくなっていく。 彼はどんどん酒を注文し、新菜のグラスにも高いシャンパンを注いだ。


新菜の頭の片隅では、冷静な自分がその光景を眺めていた。 (気持ち悪い。なんて滑稽なんだろう) (でも、この人が笑えば笑うほど、私の口座に数字が増えていく)


一時間後。 佐藤は「次は君を指名するよ」と、満足げな顔で千鳥足のまま店を去っていった。 マネージャーがやってきて、新菜の肩を叩く。 「新人なのに、初日で指名予約か。やるね」


新菜は、客がいなくなったソファに、糸が切れた人形のように沈み込んだ。 テーブルの上には、食べ残されたフルーツと、半分溶けた氷。 そして、佐藤が支払った、新菜の一ヶ月の食費よりも高い伝票が残っている。


更衣室に戻ると、アキナが鏡越しに新菜を見ていた。


「……魔法、効いたみたいね」


新菜は、震える自分の手を見つめた。 爪の先まで、「さしすせそ」という嘘の色に染まったような気がした。


「アキナさん。私、怖いです」 「何が?」 「あんなに簡単に、人が変わるなんて。適当な言葉を並べただけで、あんなに喜んで……。私、自分が誰だか分からなくなりそうです」


新菜の瞳には、涙がたまっていた。 それは、生きるために「自分を殺す術」を学んでしまったことへの、純粋な恐怖だった。


アキナは、吸いかけの加熱式タバコを置くと、新菜の頬をそっと撫でた。 その指先は、さっきよりもずっと冷たかった。


「それが夜の世界よ、新菜。あんたは今、武器を手に入れた。でも、その武器を自分自身に向けちゃダメ。心まで透明にしたら、最後には壊れて消えるわ。……あんたには、朝の世界に戻るっていう目的があるんでしょ?」


「……はい。看護学校へ、行きます」


新菜は、ドレスの裾で涙を拭った。 更衣室を出て、夜明け前の歌舞伎町を歩く。 足の指は高いヒールで真っ赤に腫れ、体中が煙草の匂いに包まれている。


けれど、バッグの底に仕舞い込んだ看護学校のパンフレットだけは、まだ汚れていない。


(さ、し、す、せ、そ……)


新菜は、呪文のようにその五文字を、心の中で繰り返した。 それは、彼女が明日を掴み取るための、残酷で、唯一の武器だった。 朝の光がビルとビルの間から差し込む。 新菜は、その光がまだ自分には眩しすぎる気がして、深くうつむきながら、狭いアパートへと歩き出した。




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