あなたはそこに沈めばいいから。

西奈 りゆ

みちちゃん

 おそらく、皆さんご存じではないでしょうか。人は可愛いものを可愛がるし、可愛くないものは、せいぜいその半分もいかない程度にしか、可愛がれない。いえ、義務で扶養することはあっても、けっきょくのところ、愛するという感情を向けることは、できないのかもしれません。


 とはいえ、皆さんの過ごされたところはどうだったのか、私には分かりません。けれど、私の家ではそうでした。


 姉は、美人で聡明で、周りに対しては人当たりがよく、当然のように皆から慕われ、両親の自慢の娘でした。さらさらと流れる黒髪、ぱっちりとした二重、潤んだ瞳、華奢な骨格、けれど成長していくにつれ、女性らしさをまとう肉体。


 対して、妹の私は、両親ですら「お姉ちゃんの残り物」とまで評するような、容姿も頭脳も、性格もぱっとしない、とても愚鈍な女の子でした。

 姉がピアノやバレエに精を出しているときに、家で一人膝を抱えていたといえば、だいたいの光景は、掴めていただけるでしょうか。


 優秀で天真爛漫な姉は周囲にもてはやされて育ちましたが、それはあくまで対外的なものでした。彼女の生来の虚栄心、そしてそれを支える残酷な悪戯心は表の世界で満たされることはなく、もっぱら私に向かっていました。

 私は姉にとって、自分の価値を相対的に高めるための、体のいい鏡に過ぎなかったのです。


 そんな私が、唯一姉にないものを大切にしていました。姉と違って、人形ひとつ持たせてもらえなかった私を不憫に思った祖母が私に譲ってくれた、赤い襦袢じゅばんつきの、くるりとした瞳を持つ、日本人形でした。今どきの、おしゃれな洋風の人形に囲まれた姉は、その子を気味悪がるばかりでした。けれど、私は少し大人びて見えるその子に、「みちちゃん」と名前を付け、可愛がっていました。ときに妹として、ときにお姉さんとして。


 姉が、なぜあそこまでの憎悪を私に向けるようになったのか、じつは今でもわからないのです。私立の中学に進んで、徐々に周りについていけなくなったのか、はたまた、自分よりも可愛い人がたくさんいることに焦ったのか。

 いずれにせよ、姉の素行はだんだんと悪くなり、私への風当たりも強くなってきました。


 それでも、私は平気でした。おかしな子と思われるかもしれませんが、私は「みちちゃん」と、暗い部屋の中で雨の音を聞いているときが、一番好きでした。

 パラパラとした小雨の音でも、殴るような豪雨の中でも。家の中という守られた狭い空間の中で、お互いに膝を抱えて秘密を共有するような静寂が、心の奥底にしんみりと染み入っていくのが好きでした。隣の部屋では、姉が轟音で音楽をかけたり、苛立った様子で両親に何かを怒鳴りつけているのが聞こえましたが、私たちはただ、空の粒が地表を叩くリズムに、ひっそりと身をゆだねていました。


 「みちちゃん」が姿を消したのは、姉の留年が決定的になりつつあると告げられた、二月の寒い時期でした。それは、私がちょうど、滑り止めではありましたが、私立高校の合格を確認して、帰宅したときのことでした。


 あのときの、愉悦に満ちた姉の表情を、私は今でも忘れていません。昔アニメで見た、シンデレラの継母のようでした。目の端と口元が歪んで、吊り上がった口角は、口元まで裂けかけているかのようでした。


 それでも私は、姉に逆らえない妹という立場で、あまりに長く過ごしすぎていました。両親もこの件について、勘づいてはいたものの、特に追及する気もないようで、けっきょく私が間違えて処分してしまったんだろうという、何の根拠もない結論に落ち着いたのです。


 高校を中退した姉は、それでも美しいままで、両親はそんな姉を、今は時期が悪いだけだからと、期待を崩さずに見守っていました。それはもはや、偶像崇拝にも似たものでした。今思えば私に似た両親の、劣等感を昇華する唯一の手段。それが、姉だったのかもしれません。


 その一方、私は学業とアルバイトをこなし、家計の足しにすることを半ば当然のように押し付けられていました。姉が、声優の専門学校に行きたいと言い始めたことも、そのことと関係があるかもしれません。

 世の中には、我がまますら当然に許される綺麗な人と、黙って搾取されるしかない、そうでない人がいる。その差を知るには、我が家は格好の場所でした。

 

 高校生になってからも、変わらず私は雨が好きでした。今はもう一人だけれど、それでも雨の中にいると、文字通り水の繭の中にいるような、庇護の響きを感じることができたのです。

 

 午前中まで雨が降っていたその日、私はとても運命的な出会いをしました。

 古ぼけた雑貨屋さんで目にした、ビロードの目をした、青いリボンをした、クマのぬいぐるみです。一見シンプルに見えますが、ところどころの装飾、そして細部の作りに手が込んでいて、美しい目が私を捉えて離しませんでした。

 その日は、アルバイトの給与振り込みの日でした。本来なら、そのほとんどを家に納めなくてはならない日です。私は夕日が迫るまで、いつまでもディスプレイの前に立ち尽くしていました。


 家族に出会わないよう、時間を潰し、紙袋を胸に抱えて門を潜ったとき、庭から姉が出てきました。その周りからは、ほんのりと、煙草の苦い香りがします。


「何やってんの、あんた。それ」


 早くも怒気を含んだその声に、私は言葉を放つことができませんでした。固まっている私から、姉はすぐに袋を奪い取り、中身を見て、鼻で嗤いました。


「あんたってさ、ホントいらつかせてくれるよね。いつまでこんなもの集めてるの? ガキなの? 馬鹿なの?」


 一息にそう言って、クマを取り出し、地面に叩きつけました。

 

 あのとき、私の身体を駆け巡った感情に、今でもうまく名前をつけることができません。怒りだったのでしょうか。憎しみだったのでしょうか。そうだという気もしますし、もっと別の何かだったような気もします。

 

 いずれにせよそのとき、私は反射的に、姉の身体を力いっぱい突き飛ばしていました。


 地面にできた大きな水たまりに、姉が尻もちをつきました。紺色のジーンズが、濡れて深い黒色に染まっていきます。一瞬呆気にとられた様子の姉でしたが、その目がみるみる怒りの色に染まっていくのが分かりました。姉が、勢いよく上半身を前に傾けるのが、見えました。殴られるのを覚悟して、私は顔をかばい、目を閉じました。


 二、三秒ほどでしょうか。姉が立ち上がる気配がありません。こわごわ目を開けてみると、姉は水たまりに尻もちをついたまま、張り裂けんばかりに目を見開いています。地面に、いえ、水たまりについたその両方の手首は、地面から伸びた二つの手のひらによって、がっしりと掴まれていました。


 あのとき一瞬見えた赤色は、襦袢の袖口だったのかもしれません。

 しっかり確認できたわけではないのですが、あの「みちちゃん」が着ていた、あの襦袢です。私には、そう見えました。

 

 それは、あっという間のことでした。姉の身体は、ごく浅いはずの水たまりの中に一瞬で落ち、二度と浮かび上がってくることはありませんでした。

 あとに残された私とクマは、かすかに残る水たまりの波紋を、ただじっと眺めていました。


 姉の失踪は、最終的に、家出ということで落ち着きました。私は、自分が見たことについて、一切口を開くことはありませんでした。信じてもらえる話ではないと思ったからですし、じつは、話す必要もないと思った。そんな私は、冷血でしょうか。


 あれから、十数年が経ちました。私は会計をして、病院をあとにしました。

 お腹の中では、新しい命が宿っています。


 今日の検査で、正式に女の子だと分かりました。

 そろそろ、名前を考えようと思います。


 今日は、とても晴れています。




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あなたはそこに沈めばいいから。 西奈 りゆ @mizukase_riyu

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