第13話:黒木の再臨と「境界線」

むつみの朝は、地響きと共に始まった。


地平線の彼方、まだ薄暗い雪原の向こうから、巨大な鉄の獣たちが這い寄ってくる。排気ガスの鼻を突く臭い。静寂を切り裂く重低音。

村の入り口、かつて「境界」などなかったはずの場所に、一台の黒い高級車が停まった。


ドアが開き、革靴が雪を汚す。現れたのは、かつて都庁の冷徹なエリートとして彼らをこの地に放逐した男、黒木だった。だが今の彼は官僚の制服を脱ぎ、さらに鋭利な「民間コンサルタント」という名の鎧を纏っている。


「……相変わらず、薄汚れた場所だ」


黒木が口を開く。冷たい霧のような吐息が、彼の冷笑を形作っていた。

その前に、一人の男が立ちふさがる。田中だ。

手には重いスコップ。背後には、この数日で築き上げた巨大な「雪の城壁」が、朝日に照らされて大理石のような鈍い光を放っている。


「おい、死神。ここから先は俺たちの庭だ。土足で入り込むんじゃねえよ」


田中の声は、腹の底から響く怒りを孕んでいた。

黒木は手にしたタブレットを軽く叩き、嘲笑うように視線を上げた。


「田中さん、相変わらず血の気が多い。だが残念ながら、ここはもう君たちの隠れ家ではない。この土地は、東京都が民間企業に売却した。目的は『むつみ次世代データセンター』の建設。君たちは今、不法占拠者だ」


「不法占拠だと? 笑わせるな! 俺たちをここに捨てたのはどこのどいつだ!」


「捨てたのではありません。有効活用のために『移送』した。そして今、この土地をさらに『有効活用』する。サーバーを冷やすには、この忌々しい雪が最適だという結論になりましてね。老人を置いておくより、データを置く方がはるかに価値がある」


黒木の背後で、ショベルカーがその巨大な爪をガチガチと鳴らした。

金属が擦れ合う嫌な音が、静かな山々に反響する。


「価値、だと……?」

佐藤が、集会所から駆けつけて田中の隣に立った。その手には、清掃員時代から使い込んだ古い箒ではなく、嘉平から譲り受けた頑強な鍬が握られている。


「黒木さん、あなたには見えないのか。この雪の中に、私たちがどれだけの思いで火を灯したか。トメさんが掘り起こした野菜の芽が、杉本さんの作った明かりが、この村にどれだけの体温を戻したか!」


「佐藤さん、感情論はノイズです」

黒木は無機質な瞳で佐藤を射抜いた。

「数字がすべてだ。君たちがここでいくら泥を捏ねて『通貨』ごっこをしようと、国家の経済指標には一ミリも寄与しない。君たちは、更地にする前の『瓦礫』と同じだ。どきなさい。重機で潰される前に」


「……瓦礫、か」

田中が低く笑った。一歩、前へ出る。雪を踏みしめる音が、硬く、重い。

「いいぜ。やってみろよ。だがな、エリートさん。あんたがバカにしたこの『雪』が、どれだけ硬くなるか知ってるか?」


田中がスコップを雪の城壁に突き立てる。

「俺たちが踏み固め、水を撒き、魂を込めて凍らせたこの壁は、あんたの安っぽい計算じゃぶち壊せねえぞ。ここは俺たちの『家』だ。砂利が宝石に磨き上げられた、聖域なんだよ!」


「壊せ」

黒木が冷酷に命じた。


先頭の重機が咆哮を上げ、雪の壁に向かって突進する。

轟音。振動が足の裏を伝わり、心臓を直接揺さぶる。

だが、巨大なバケットが雪の壁に激突した瞬間、響いたのは鈍い「ゴン!」という音だった。


壁は崩れない。

田中が建築職人の意地で計算し尽くし、寒波を利用して氷結させた城壁は、鋼鉄の重機を押し返したのだ。


「何っ……」

黒木の眉がピクリと動く。


「レン! カイ! やれ!」

杉本が叫ぶ。

村の至る所に設置されたスピーカーから、耳を聾するような高周波の電子音が鳴り響いた。杉本がハックした重機の制御システムに、レンたちの送り込んだノイズが干渉する。

重機のアームが狂ったように踊り、黒木の足元を掠めた。


「うわああ!」

黒木が雪の上に無様に転がる。高級なスーツが泥混じりの雪に汚れ、その顔に初めて「恐怖」という感情が走った。


「黒木さん」

佐藤が、転がった黒木を見下ろして静かに言った。

「あなたが信じているのは『システム』だ。でも、私たちが信じているのは、この隣にいる『人間』だ。冷たい機械じゃ、私たちの熱は消せませんよ」


黒木は震える手で雪を払い、立ち上がった。だが、その視線の先には、城壁の上に立ち、自分たちを見下ろす大勢の老人たちと若者たちの姿があった。

トメが、嘉平が、カイが。誰もが、鋭く、それでいて静かな決意を宿した目で彼を見つめている。


「……今日は引き揚げます。ですが、これは戦争だ」

黒木は苦虫を噛み潰したような顔で車に逃げ込んだ。


「戦争だろうがなんだろうが、受けて立ってやるよ!」

田中の咆哮が、雪原に消えていく黒木の車を追いかける。


静寂が戻ったむつみ。

佐藤は、泥のついた自分の手を見つめた。心臓の高鳴りが、熱い血となって全身を巡っている。

「境界線」は引かれた。

それは、自分たちが、自分たちの力で勝ち取った「生存」のラインだった。


「……みんな、大丈夫か」

佐藤が振り返ると、トメが笑って温かい汁物の入った大きな鍋を運んできた。

「当たり前だよ。腹が減ってちゃ、戦はできないからね。さあ、城壁の上で食べよう。格別の味だよ」


湯気が立ち昇り、冷え切った空気の中に、明日への希望の匂いが混ざり合う。

棄てられた老人たちの反撃は、今、始まったばかりだった。


---


**物語はさらに深く、重層的になっていきます。第14話では、この「勝利」の様子がSNSで拡散され、かつて彼らを捨てた東京の「家族」たちが、それぞれの思惑を抱えてむつみに現れ始めます。血縁という名の「呪縛」との対峙、詳しく描きますか?**


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