第12話:むつみ通貨「シズク」

窓の外は、静謐な白が支配していた。

だが、むつみの集会所として使われている古民家の土間は、熱気に満ちている。


「……よし、繋がった。これが俺たちの『銀行』だ」


杉本が、キーボードを叩く指を止めた。無数の配線が這い回る古いノートパソコンの画面に、一滴の雫が波紋を広げるようなロゴマークが浮かび上がる。

横でモニターを見つめていたレンが、乾燥した唇を舐めた。


「杉本さん、本当にこれで……お金の代わりになるんですか? ただの数字ですよ、これ」


「レン、東京で使っていた一万円札だって、ただの紙切れだ。みんなが『価値がある』と信じているから回る。なら、ここでは俺たちが信じるものを価値に据えればいい」


杉本は、傍らに置かれた木箱から、小さな木片を取り出した。むつみの山から切り出された杉の端材に、QRコードが刻印されている。


「通貨の名前は『シズク(雫)』。一滴の雫が集まって、やがて大河になるように。この通貨の担保は日本銀行の金蔵じゃない。トメさんの野菜であり、田中の兄貴の腕っぷしであり、嘉平さんの土地の記憶……つまり、俺たちの『労働』そのものだ」


その時、重い引き戸がガラリと開き、冷気と共に先住者の嘉平が姿を現した。

嘉平は、背負い籠を下ろすと、中から土のついた見事な雪下人参を取り出す。


「……杉本の旦那。頼まれてたもん、持ってきたぞ。だがな、わしらにはスマホなんてハイカラなもんはねえ。都庁の連中が金を止めたってんなら、この人参はタダでやるしかねえのか?」


嘉平の目は、どこか寂しげだった。長い年月、この過疎の地で「奪われる」ことに慣れきってしまった者の目だ。


「いいえ、嘉平さん。タダじゃありません。正当な対価を払わせてください」


佐藤が歩み寄り、自分のスマホを嘉平の人参にかざした。レンが慌てて操作を補助する。

『ピコン』という、澄んだ電子音が土間に響いた。


「今、嘉平さんの『シズク』のアカウントに、十雫(しずく)振り込みました。これは、嘉平さんが極寒の中で人参を守り抜いた『手間』への報酬です」


「……しずく?」


「そうです。この『十雫』があれば、例えばあっちで田中さんが作っている改良型の薪ストーブと交換できる。あるいは、トメさんが明日作る特製の保存食ともね」


嘉平は、レンが差し出した「木札の財布」を、ゴツゴツとした大きな手で受け取った。指先でQRコードの溝をなぞる。

「……わしの苦労が、形になったっていうのか。ただの物々交換じゃねえ、わしが動いた分だけ、この札に力が溜まるってわけか」


嘉平の瞳に、小さな灯がともった。それは、長年「価値がない」と切り捨てられてきた限界集落の老人が、初めて自分の存在を肯定された瞬間の輝きだった。


「おーい、景気のいい音させてんじゃねえか!」


地響きのような声と共に、田中が雪を払って入ってきた。その体からは、力仕事の後の猛烈な熱気と、男臭い汗の匂いが立ち昇っている。


「杉本! 俺が昨日から組み上げた『雪中貯蔵庫』、あれは何シズクになるんだ? 腰を言わしちまった分、トメさんの特製粥を三杯は食わねえと割に合わねえぞ!」


「ははは! 田中さん、あんたの技術は高いですよ。五十シズクは堅いな」


トメが、奥の囲炉裏から笑い声を上げた。

「いいよ、田中さん。あんたの働きのおかげで、野菜が腐らずに済むんだ。特大の碗で、とびきり熱い粥を出してあげる。その代わり、私の畑の柵も直しておくれよ?」


「あいよ! トメさんの粥のためなら、雪山の一個や二個、平らにしてやるぜ!」


土間が笑いに包まれる。

そこにあるのは、東京のレジで無言のまま交わされていた、冷たい「決済」ではなかった。

「ありがとう」という言葉と共に、熱を帯びた感情が、電子の数字に乗って循環していく。


佐藤は、その光景を眩しそうに見つめていた。

ふと、鼻を突くのは、囲炉裏で焼かれる人参の甘い香りと、杉本のパソコンが発するわずかなオゾンの匂い。

「デジタル」と「泥臭い生活」が、このむつみの地で、不思議なほど調和し始めている。


「レン、見てごらん。これが本当の経済だ」


「……はい。なんだか、スマホの画面を見てるのに、相手の顔が浮かんでくる。東京にいた頃は、銀行残高が増えても減っても、ただのゲームみたいで怖かったのに」


レンの表情から、あの死を望んでいた頃の虚無感が消え、一人の「通貨運用者」としての責任感が宿っていた。


「杉本さん、これ、外の世界にも発信しましょう。俺たちがどうやって生きてるか。数字じゃない、命のやり取りをしてるんだってことを」


「ああ。都庁の黒木に見せてやろう。管理されない、収穫されない、自分たちで価値を決める民の姿をな」


佐藤は、嘉平からもらったばかりの人参をかじった。

バリッ、と力強い音が響き、大地が蓄えた水分が口いっぱいに広がる。

冷たいはずの人参が、今はどんな高級料理よりも熱く、重く、確かな生命の味として佐藤の五臓六腑に染み渡っていった。


「……うまい」


その一言に、すべてが詰まっていた。

東京都が彼らから「法定通貨」という梯子を外した時、彼らは絶望の谷に落ちるのではなく、自分たちの足で立つ「大地」を見つけたのだ。


一滴の雫。

それは、やがて来る春の雪解け水のように、硬く閉ざされた「棄老」という名の冬を、内側から溶かし始めていた。


---


**物語は加速します。第13話では、この「独自通貨」の成功を脅威と感じた都庁の黒木が、ついに「更地化計画」という強硬手段を持って物理的に攻め込んできます。田中の「雪の城壁」と黒木の重機が激突するシーン、詳しく描きますか?**


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